
アンダンテ・カンタービレ
チャイコフスキー・1871
文豪トルストイが涙を流した、民謡から生まれた歌うメロディ。
アンダンテ・カンタービレ(弦楽四重奏曲第1番 第2楽章)のページへ
Romantic · 1840–1893
「三大バレエの作曲家」The master of ballet music
『白鳥の湖』『くるみ割り人形』!三大バレエを生んだメロディーの魔術師。The melody magician behind Swan Lake and The Nutcracker.

チャイコフスキー・1871
文豪トルストイが涙を流した、民謡から生まれた歌うメロディ。
アンダンテ・カンタービレ(弦楽四重奏曲第1番 第2楽章)のページへ
チャイコフスキー・1874–1875
ホルンの合図とピアノの大和音!世界一有名なオープニング。
ピアノ協奏曲第1番 変ロ短調のページへ
チャイコフスキー・1875–1876
オーボエが歌う、悲しく美しい白鳥のテーマ。バレエの代名詞!
バレエ「白鳥の湖」より 情景のページへ
チャイコフスキー・1876
雑誌の連載から生まれた、ゆらゆら揺れる切ない舟の歌。
「四季」より 6月 舟歌のページへ
チャイコフスキー・1876
暗く重い足どりから、最後は大勝利の大行進へ!
スラヴ行進曲のページへ
チャイコフスキー・1875–1876
4羽の白鳥が手をつないで、ちょこちょこぴったり!
バレエ「白鳥の湖」より 小さな白鳥たちの踊りのページへ
チャイコフスキー・1875–1876
落ち葉がひらひら…。ピアノで歌う、さびしくて美しい秋の歌。
「四季」より 10月 秋の歌のページへ
チャイコフスキー・1876–1877
モーツァルト時代の気分で!チェロが主題を次々に変身させる優雅な変奏曲。
ロココ風の主題による変奏曲のページへ
チャイコフスキー・1877–1878
ファンファーレが告げる「運命」。苦しみをこえて民衆の祭りへ!
交響曲第4番 ヘ短調のページへ
チャイコフスキー・1880
弦楽器だけで奏でる、あたたかく分厚いハーモニー。
弦楽セレナーデ ハ長調のページへ
チャイコフスキー・1869–1880
ぶつかり合う剣の音、そして世界一せつない愛のテーマ。
幻想序曲「ロメオとジュリエット」のページへ
チャイコフスキー・1880
ローマで聞いたラッパの音から始まる、イタリア旅行のおみやげ曲!
イタリア奇想曲のページへ
チャイコフスキー・1888
暗い「運命」のテーマが、最後に勝利の行進に変わる!
交響曲第5番 ホ短調のページへ
チャイコフスキー・1892
キラキラ鳴る不思議な楽器チェレスタ。お菓子の国の妖精の踊り。
バレエ「くるみ割り人形」より 金平糖の精の踊りのページへ
チャイコフスキー・1892
木管のやわらかな和音から、ハープがきらめく花たちの大ワルツへ。
バレエ「くるみ割り人形」より 花のワルツのページへ
チャイコフスキー・1892
たった1分ちょっと!全速力で駆けぬけるロシアの踊り。
バレエ「くるみ割り人形」より トレパック(ロシアの踊り)のページへ
チャイコフスキー・1892
おもちゃの国の幕が開く!低い楽器を使わない、小さくてかわいい序曲。
バレエ「くるみ割り人形」より 小序曲のページへ
チャイコフスキー・1892
ピッコロがピョコピョコ!1分ほどで終わる、「お茶」の踊り。
バレエ「くるみ割り人形」より 中国の踊りのページへ
チャイコフスキー・1892
名前は「コーヒー」なのに、もとは子守歌!ゆらゆら神秘の踊り。
バレエ「くるみ割り人形」より アラビアの踊りのページへ
チャイコフスキー・1892
3本のフルートがそろって笑う!おもちゃの笛の、ほがらかな踊り。
バレエ「くるみ割り人形」より 葦笛の踊りのページへ
チャイコフスキー・1893
静かに消えていく最後。作曲家が心のすべてをこめた最後の交響曲。
交響曲第6番 ロ短調「悲愴」のページへ
ホー!チャイコフスキーは、もとは法務省の役人だったんだよ。
チャイコフスキーは1840年、ロシアのウラル地方の町ヴォトキンスクで、鉱山技師の父のもとに生まれました。5歳でピアノを習い始め、音楽が大好きな子どもでしたが、両親は息子を役人にするつもりでした。10歳でサンクトペテルブルクの法律学校に入り、14歳のときには大好きな母をコレラで亡くします。この悲しみは一生心に残ったと言われています。Tchaikovsky was born in 1840 in Votkinsk, a town in the Ural region of Russia, where his father was a mining engineer. He started piano lessons at five and loved music, but his parents planned for him to become a civil servant. At ten he entered the School of Jurisprudence in Saint Petersburg, and at fourteen he lost his beloved mother to cholera. This loss is said to have stayed with him for the rest of his life.
卒業後は法務省で働きましたが、音楽への思いを捨てきれず、1862年に開校したばかりのサンクトペテルブルク音楽院に入学しました。1866年からはモスクワ音楽院で教えながら作曲に打ちこみます。ピアノ協奏曲第1番(1875)、バレエ『白鳥の湖』(1877年初演)、のちの『眠れる森の美女』『くるみ割り人形』など、一度聴いたら忘れられないメロディーをいくつも生み出しました。After graduating, he worked at the Ministry of Justice, but he could not give up music. In 1862 he enrolled at the newly opened Saint Petersburg Conservatory. From 1866 he taught at the Moscow Conservatory while pouring his energy into composing. He created melody after unforgettable melody in works such as Piano Concerto No. 1 (1875), the ballet Swan Lake (first staged in 1877), and later The Sleeping Beauty and The Nutcracker.
1877年、裕福な未亡人ナジェジダ・フォン・メックが支援を申し出て、13年間にわたってお金を送り続けました。2人は1000通をこえる手紙を交わしましたが、直接会わないという約束を守り通しました。同じ年に結婚もしましたが、うまくいかず数週間で別れてしまいます。苦しい日々の中から、交響曲第4番やオペラ『エフゲニー・オネーギン』が生まれました。In 1877 a wealthy widow, Nadezhda von Meck, offered to support him, and she sent him money for thirteen years. They exchanged more than a thousand letters but kept their promise never to meet in person. That same year Tchaikovsky also married, but the marriage failed and the couple separated within weeks. Out of this painful time came his Fourth Symphony and the opera Eugene Onegin.
晩年は世界的な名声を得て、1891年にはニューヨークのカーネギー・ホールの開館記念演奏会で指揮もしました。1893年10月、交響曲第6番『悲愴』を自ら指揮して初演した9日後、サンクトペテルブルクで53歳で急死します。死因として記録されたのはコレラです。自殺だったという説も後に広まりましたが、それを裏づける確かな証拠はありません。In his later years he became world-famous, and in 1891 he conducted at the opening festival of Carnegie Hall in New York. In October 1893 he conducted the premiere of his Sixth Symphony, the Pathétique. Nine days later he died suddenly in Saint Petersburg, aged 53. The recorded cause of death was cholera. Later writers proposed theories of suicide, but no firm evidence supports them.
Tchaikovsky was born in Russia in 1840. At first, he worked for the government. But he loved music too much! He went to music school at twenty-two. Later, he wrote Swan Lake and The Nutcracker. People all over the world love his ballets.チャイコフスキーは1840年、ロシアで生まれました。はじめは政府で働いていました。でも、音楽が大好きすぎたのです!22歳で音楽学校に入りました。のちに『白鳥の湖』と『くるみ割り人形』を書きました。世界中の人が彼のバレエを愛しています。
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1891年、チャイコフスキーはパリで、鉄琴のような澄んだ音がする新しい楽器チェレスタに出会いました。彼は出版社に、ほかの作曲家に先に使われないよう秘密にして取り寄せてほしいと手紙で頼んでいます。こうして『くるみ割り人形』の『金平糖の精の踊り』が生まれました。
In 1891 in Paris, Tchaikovsky discovered the celesta, a new instrument with a pure, bell-like sound. He wrote to his publisher asking him to order one in secret, so that other Russian composers would not use it first. That is how the Dance of the Sugar Plum Fairy in The Nutcracker got its magical sound.
ピアノ協奏曲第1番を書き上げたチャイコフスキーは、尊敬するピアニストのニコライ・ルビンシテインに聴かせました。ところが返ってきたのは「弾けない、価値がない」という厳しい言葉。彼は書き直しを断り、1875年にドイツのビューローがアメリカのボストンで初演して大成功しました。
When Tchaikovsky finished his Piano Concerto No. 1, he played it for the pianist Nikolai Rubinstein, whom he respected. Rubinstein harshly called it unplayable and worthless. Tchaikovsky refused to change it, and in 1875 the German pianist Hans von Bülow gave the premiere in Boston, USA, with great success.
いまでは世界でもっとも有名なバレエのひとつですが、1877年のモスクワ初演は評価が分かれました。それでも初演版は1883年までに計41回上演されていて、ただの「大失敗」ではありません。死後の1895年、プティパとイワノフによる新しい版が、今日につながる名声を確立しました。
Swan Lake is now one of the world's most famous ballets, but reactions to its 1877 Moscow premiere were mixed. Even so, the original production received 41 performances by 1883, so it was not simply a complete failure. After Tchaikovsky's death, the landmark 1895 revival by Marius Petipa and Lev Ivanov established the ballet's lasting fame.
序曲『1812年』は、ナポレオンのロシア遠征の失敗を描いた曲で、楽譜にはなんと大砲の音が書き込まれています。野外コンサートでは本物の大砲を使うこともあります。ところが本人は手紙で、この曲を「とても騒がしく、あまり愛情をこめずに書いた」と書いているのです。
The 1812 Overture celebrates the defeat of Napoleon's invasion of Russia, and the score actually includes cannon fire. Real cannons are sometimes used at outdoor concerts. Yet Tchaikovsky himself wrote in a letter that the piece was very loud and noisy and written without much love.
チャイコフスキーとフォン・メック夫人は、会わないという約束を13年間守りましたが、偶然顔を合わせたことはありました。そのひとつは、夫人の領地の近くで2人の馬車がすれちがったときで、言葉を交わさずにそのまま別れたと伝えられています。
Tchaikovsky and Madame von Meck kept their promise not to meet for thirteen years, but they did see each other by accident. On one such occasion, their carriages passed each other near her estate, and they went on their way without a word.
1893年6月、チャイコフスキーはイギリスのケンブリッジ大学から名誉音楽博士の称号を受けました。同じ日に称号を受けた作曲家には、フランスのサン=サーンスやドイツのブルッフらもいました。亡くなるわずか数か月前の、晴れやかな出来事でした。
In June 1893, Tchaikovsky received an honorary doctorate in music from the University of Cambridge in England. Other composers honored at the same ceremony included Camille Saint-Saëns of France and Max Bruch of Germany. It was a joyful moment, just a few months before his death.
FAMOUS WORDS
“This is Fate, the fatal power which prevents our hopes of happiness from being realised.”これは「運命」です。幸せになりたいという望みがかなうのをじゃまする、宿命の力なのです。
— Pyotr Ilyich Tchaikovsky(1878年、交響曲第4番について書いたフォン・メック夫人への手紙)Wikimedia Commons でパブリックドメイン(または CC0)と確認した画像です。クリックで拡大。







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