Niijima Jo: The Young Samurai Who Ran Away to Learn(新島襄――学ぶために国を出た若者)の挿絵
Level 3 Pre-Intermediate偉人伝

Niijima Jo: The Young Samurai Who Ran Away to Learn

新島襄――学ぶために国を出た若者

  • 📖 612 words
  • ⏱ 約6分
  • 🔊 3:35
  • YL 1.5–2.4
  • 英検準2級目安
  • 📝 全訳つき

あらすじ国を出ることが死罪にもなった江戸時代の終わり。ひとりの若い侍が、夜の函館からひそかにアメリカ船に乗りこみます。

多読ベストのオリジナル伝記(史実をもとに)

キーワード(8語)本文の点線の語はタップで意味が出ます
  • scholars学者
  • faith信仰
  • crime犯罪
  • cabin boy(船の)給仕・見習い
  • bachelor's degree学士号
  • seminary神学校
  • minister牧師
  • character人格
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Niijima Jo was born in 1843 in Edo, the son of a samurai who served the small Annaka domain. As a boy, his name was Shimeta. He was clever and studied Chinese classics and, later, Dutch, which was the main Western language Japanese scholars could learn at that time.

新島襄は1843年、江戸で生まれました。父は、小さな安中藩に仕える武士でした。子どものころの名前は七五三太(しめた)です。頭のいい少年で、中国の古典を学び、のちにオランダ語も学びました。当時の日本の学者が学べる西洋の言葉といえば、おもにオランダ語だったのです。

It is said that one day, he saw a huge Dutch warship in Edo Bay. Next to it, the Japanese boats looked like toys. He wondered how foreign countries could build such ships. Later, he read a book in Chinese about the history of America. He was amazed to learn that in America, people chose their own leaders and built free schools for children.

ある日、七五三太は江戸湾で、オランダの巨大な軍艦を見たといわれています。そのそばでは、日本の船はおもちゃのように見えました。外国はどうしてこんな船を造れるのだろう、と七五三太は不思議に思いました。のちに、中国語で書かれたアメリカの歴史の本を読みました。アメリカでは、人々が自分たちで指導者を選び、子どものための無料の学校をつくっている。それを知って、たいへんおどろきました。

He also read parts of the Bible in Chinese. He began to feel that he must go abroad to learn about the world and about this new faith. But Japan was still closed. Leaving the country without permission was a crime, and the punishment could be death.

中国語に訳された聖書も、一部を読みました。世界のこと、そしてこの新しい信仰のことを学ぶには、外国へ行くしかない。そう思うようになりました。けれども、日本はまだ国を閉ざしていました。許しを得ずに国を出るのは罪で、死罪になるおそれさえありました。

In 1864, when he was twenty-one, Niijima went to Hakodate in the north. One night, with the help of friends, he secretly got on an American ship called the Berlin. In Shanghai, he moved to another American ship, the Wild Rover, and worked as a cabin boy. The captain, Horace Taylor, found his name hard to say, so he called him Joe.

1864年、21歳の新島は北の函館へ向かいました。ある夜、友人たちの手を借りて、ベルリン号というアメリカの船にこっそり乗りこみました。上海では、ワイルド・ローヴァー号という別のアメリカの船に乗りかえ、船の雑用係として働きました。船長のホレス・テイラーは、新島の名前が言いにくかったので、「ジョー」と呼ぶことにしました。

After about a year at sea, the ship reached Boston. The owner of the ship, Alpheus Hardy, read a letter Niijima had written in simple English about why he had come. Hardy and his wife were moved. They took him into their home and paid for his education. Niijima later used the name Joseph Hardy Neesima.

1年ほどの航海のあと、船はボストンに着きました。船の持ち主のアルフィーアス・ハーディーは、新島が書いた手紙を読みました。自分がなぜアメリカに来たのかを、つたない英語でつづった手紙です。ハーディー夫妻は心を打たれ、新島を家に迎え入れて、学費を出してくれました。新島はのちに、ジョゼフ・ハーディー・ニイシマと名のるようになりました。

He studied at Phillips Academy and then at Amherst College. In 1870, he graduated from Amherst. He is said to be the first Japanese person to earn a bachelor's degree. Then he studied at a seminary to become a Christian minister.

新島はフィリップス・アカデミーで学び、それからアマースト大学に進みました。1870年、アマースト大学を卒業しました。学士の学位をとった最初の日本人だといわれています。その後は、キリスト教の牧師になるため、神学校で学びました。

In 1872, the Iwakura Mission, a group of Japanese leaders traveling around the world, came to America. They asked Niijima to help them as an interpreter, and he traveled with them to Europe to study schools in many countries. By now, Japan had changed. He would no longer be punished for going home.

1872年、岩倉使節団がアメリカにやって来ました。世界をまわって各国を見て歩いていた、日本の指導者たちの一行です。使節団は新島に、通訳として手伝ってほしいと頼みました。新島は使節団と一緒にヨーロッパへ渡り、各国の学校を調べました。このころには、日本はすっかり変わっていました。もう、帰国しても罰を受けることはなかったのです。

In 1874, before he returned to Japan, Niijima gave a speech at a church meeting in Rutland, Vermont. He spoke of his dream, a Christian school in Japan where young people could learn freely and grow into people of strong character. It is said that he told the audience he would not leave the stage until they helped him. People gave about five thousand dollars. One story says that a poor old farmer gave the two dollars he had saved for his train ticket home, and walked home instead.

1874年、日本に帰る前に、新島はバーモント州ラットランドの教会の集会で演説をしました。語ったのは、自分の夢です。日本にキリスト教の学校をつくりたい。若者が自由に学び、しっかりした人格を持つ人に育っていける学校を。新島は聴衆に「助けていただけるまで、この壇を降りません」と言ったといわれています。人々は、およそ5000ドルを寄付しました。こんな話も伝わっています。貧しい年老いた農夫が、帰りの汽車賃にとっておいた2ドルを差し出し、自分は歩いて家に帰ったというのです。

In 1875, he opened the Doshisha English School in Kyoto with only eight students. Kyoto was a city of old temples, and many people did not want a Christian school there. But Niijima did not give up. The next year, he married Yamamoto Yae, a strong woman from Aizu who had fought in a war when she was young.

1875年、新島は京都で同志社英学校を開きました。生徒は、たった8人でした。京都は古いお寺の多い町です。キリスト教の学校などいらない、という人もたくさんいました。それでも新島はあきらめませんでした。翌年、新島は山本八重と結婚しました。会津出身の気丈な女性で、若いころに戦争で戦ったこともある人です。

Niijima wanted Doshisha to become a full university. He traveled and gave speeches to raise money, even when he was sick. In 1890, he died in Oiso at the age of forty-six. His dream came true after his death. Doshisha University is now one of the best-known private universities in Japan.

新島は、同志社を本格的な大学にしたいと考えていました。病気になってからも、各地をまわって演説し、お金を集めつづけました。1890年、新島は大磯で亡くなりました。46歳でした。その夢は、新島が亡くなったあとにかないました。同志社大学は今、日本でもよく知られた私立大学の一つになっています。

Niijima risked his life for a chance to learn. He believed that education should make people free and kind, not just smart. Today, when studying abroad is much easier, his courage reminds us how precious the chance to learn really is.

新島は、学ぶチャンスを得るために命をかけました。教育は人を賢くするだけのものではない。人を自由に、そして優しくするものでなければならない。新島はそう信じていました。留学がずっと簡単になった今、新島の勇気は、学ぶ機会がどれほど貴重なものかを思い出させてくれます。

📖 全訳をまとめて読む 読み終わってからの答え合わせに

新島襄は1843年、江戸で生まれました。父は、小さな安中藩に仕える武士でした。子どものころの名前は七五三太(しめた)です。頭のいい少年で、中国の古典を学び、のちにオランダ語も学びました。当時の日本の学者が学べる西洋の言葉といえば、おもにオランダ語だったのです。

ある日、七五三太は江戸湾で、オランダの巨大な軍艦を見たといわれています。そのそばでは、日本の船はおもちゃのように見えました。外国はどうしてこんな船を造れるのだろう、と七五三太は不思議に思いました。のちに、中国語で書かれたアメリカの歴史の本を読みました。アメリカでは、人々が自分たちで指導者を選び、子どものための無料の学校をつくっている。それを知って、たいへんおどろきました。

中国語に訳された聖書も、一部を読みました。世界のこと、そしてこの新しい信仰のことを学ぶには、外国へ行くしかない。そう思うようになりました。けれども、日本はまだ国を閉ざしていました。許しを得ずに国を出るのは罪で、死罪になるおそれさえありました。

1864年、21歳の新島は北の函館へ向かいました。ある夜、友人たちの手を借りて、ベルリン号というアメリカの船にこっそり乗りこみました。上海では、ワイルド・ローヴァー号という別のアメリカの船に乗りかえ、船の雑用係として働きました。船長のホレス・テイラーは、新島の名前が言いにくかったので、「ジョー」と呼ぶことにしました。

1年ほどの航海のあと、船はボストンに着きました。船の持ち主のアルフィーアス・ハーディーは、新島が書いた手紙を読みました。自分がなぜアメリカに来たのかを、つたない英語でつづった手紙です。ハーディー夫妻は心を打たれ、新島を家に迎え入れて、学費を出してくれました。新島はのちに、ジョゼフ・ハーディー・ニイシマと名のるようになりました。

新島はフィリップス・アカデミーで学び、それからアマースト大学に進みました。1870年、アマースト大学を卒業しました。学士の学位をとった最初の日本人だといわれています。その後は、キリスト教の牧師になるため、神学校で学びました。

1872年、岩倉使節団がアメリカにやって来ました。世界をまわって各国を見て歩いていた、日本の指導者たちの一行です。使節団は新島に、通訳として手伝ってほしいと頼みました。新島は使節団と一緒にヨーロッパへ渡り、各国の学校を調べました。このころには、日本はすっかり変わっていました。もう、帰国しても罰を受けることはなかったのです。

1874年、日本に帰る前に、新島はバーモント州ラットランドの教会の集会で演説をしました。語ったのは、自分の夢です。日本にキリスト教の学校をつくりたい。若者が自由に学び、しっかりした人格を持つ人に育っていける学校を。新島は聴衆に「助けていただけるまで、この壇を降りません」と言ったといわれています。人々は、およそ5000ドルを寄付しました。こんな話も伝わっています。貧しい年老いた農夫が、帰りの汽車賃にとっておいた2ドルを差し出し、自分は歩いて家に帰ったというのです。

1875年、新島は京都で同志社英学校を開きました。生徒は、たった8人でした。京都は古いお寺の多い町です。キリスト教の学校などいらない、という人もたくさんいました。それでも新島はあきらめませんでした。翌年、新島は山本八重と結婚しました。会津出身の気丈な女性で、若いころに戦争で戦ったこともある人です。

新島は、同志社を本格的な大学にしたいと考えていました。病気になってからも、各地をまわって演説し、お金を集めつづけました。1890年、新島は大磯で亡くなりました。46歳でした。その夢は、新島が亡くなったあとにかないました。同志社大学は今、日本でもよく知られた私立大学の一つになっています。

新島は、学ぶチャンスを得るために命をかけました。教育は人を賢くするだけのものではない。人を自由に、そして優しくするものでなければならない。新島はそう信じていました。留学がずっと簡単になった今、新島の勇気は、学ぶ機会がどれほど貴重なものかを思い出させてくれます。

日本語訳:多読ベスト

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このお話の教訓 Moral

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Learning is precious. Treasure every chance you have.

学ぶことは尊い。学ぶチャンスを、ひとつひとつ大切にしよう。

理解度チェック Quick Quiz

読み終わったら、3問だけ。間違えても大丈夫。多読は「だいたいわかる」で十分です。

Q1. Why was it dangerous for Niijima to leave Japan?

Q2. Who paid for Niijima's education in America?

Q3. How many students did Doshisha English School have at first?

この読み物の使い方 3ステップ

  1. 聞きながら読む 音声に合わせて光る文を目で追う(聞き読み)。わからない語は飛ばしてOK。
  2. 音声なしで読む ⏱計測ボタンで読む速さ(WPM)を測ってみる。
  3. 耳だけで聞く 🎧聞くだけモードで、文字を見ずに内容がわかるか試す。🔁1文リピートで音読・シャドーイングも。

聞き読みの効果とやり方/多読三原則

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