Kurosawa Akira: The Emperor of Film(黒澤明――世界が認めた映画監督)の挿絵
Level 3 Pre-Intermediate偉人伝

Kurosawa Akira: The Emperor of Film

黒澤明――世界が認めた映画監督

  • 📖 613 words
  • ⏱ 約6分
  • 🔊 3:38
  • YL 1.5–2.4
  • 英検準2級目安
  • 📝 全訳つき

あらすじ画家を夢見ていた青年・明は、ある新聞広告をきっかけに映画の世界へ。やがて彼の作品は、海の向こうの映画にまで大きな影響を与えます。

多読ベストのオリジナル伝記(史実をもとに)

キーワード(8語)本文の点線の語はタップで意味が出ます
  • narrator語り手・説明する人
  • silent movies無声映画
  • advertisement広告
  • assistant directors助監督
  • bandits盗賊・野武士
  • perfectionist完璧主義者
  • inspiredひらめきを与えた
  • honorary名誉の
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Kurosawa Akira was born in Tokyo in 1910, the youngest of eight children. His father, a former army officer who worked as a teacher, believed that movies were good for children. That was an unusual idea at the time. So young Akira often went to the movies with his family.

黒澤明は1910年、東京で8人きょうだいの末っ子として生まれました。父親は元陸軍の軍人で、教師をしていました。映画は子どものためになる、と考えていた人です。当時としては、珍しい考えでした。そのため、幼い明は家族と一緒によく映画を見に行きました。

It is said that as a small boy, Akira was weak and cried often. But one day, a teacher at his elementary school praised one of his paintings in front of the whole class. This gave him confidence, and he began to dream of becoming a painter.

小さいころの明はひ弱で、よく泣く子だったといわれています。ところがある日、小学校の先生が、明の描いた絵をクラスのみんなの前で褒めてくれました。これで自信がついた明は、画家になる夢を持つようになりました。

His older brother Heigo was very important to him. Heigo worked as a benshi, a narrator who explained silent movies to the audience in theaters. Through Heigo, Akira saw many films from around the world. After the Great Kanto Earthquake of 1923, Heigo took him to see the destroyed city and made him look carefully at the terrible sights. Akira later wrote that his brother had taught him to face fear instead of looking away. When sound movies arrived, benshi lost their jobs, and in 1933, Heigo died young.

明にとって、兄の丙午(へいご)はとても大切な存在でした。丙午は弁士として働いていました。弁士とは、映画館で、音の出ない映画(無声映画)の内容を観客に語って聞かせる人です。この兄を通して、明は世界中の映画を見ました。1923年に関東大震災が起きたとき、丙午は明を連れて、壊滅した町を見に行きました。そして、むごたらしい光景から目をそらさず、しっかり見るようにさせました。恐ろしいものから目をそむけず向き合うことを兄に教わった、と明はのちに書いています。やがて音の出る映画が現れると、弁士は仕事を失いました。そして1933年、丙午は若くして亡くなりました。

Akira studied painting, but it was hard to earn a living as a painter. In 1936, he saw a newspaper advertisement from a film studio that was looking for assistant directors. He applied and was chosen. He learned filmmaking under the director Yamamoto Kajiro, who taught him that a good director must also be able to write.

明は絵を学びましたが、画家として食べていくのは大変でした。1936年、映画会社が助監督を募集している新聞広告を目にしました。応募すると、採用されました。明は山本嘉次郎監督のもとで、映画づくりを学びました。よい監督は脚本も書けなければならない、と山本は教えました。

In 1943, Kurosawa made his first film as a director, Sanshiro Sugata. It was about a young man learning judo. Audiences loved its energy.

1943年、黒澤は初めて監督した映画『姿三四郎』を発表しました。柔道を学ぶ若者の物語です。勢いのあるこの作品に、観客は夢中になりました。

His big chance came in 1950 with Rashomon. In the film, four people tell the story of the same crime, and each version is different. Who is telling the truth? Even the studio did not understand the film well. But in 1951, it won the top prize at the Venice Film Festival. For the first time, the world turned its eyes to Japanese movies.

大きなチャンスは、1950年の『羅生門』で訪れました。この映画では、四人の人物が同じ事件について語りますが、話はそれぞれ食い違っています。いったい誰が本当のことを言っているのか。映画会社でさえ、この作品をよく理解していませんでした。ところが1951年、『羅生門』はヴェネツィア国際映画祭で最高賞に輝きました。世界が初めて、日本映画に目を向けたのです。

Kurosawa then made one great film after another. Ikiru, in 1952, is about a quiet office worker who learns that he is dying and tries to do one good thing before the end. Seven Samurai, in 1954, is about poor farmers who hire seven samurai to protect their village from bandits. Many people call it one of the greatest films ever made.

それから黒澤は、名作を次々に生み出しました。1952年の『生きる』の主人公は、目立たない役所勤めの男です。自分の死が近いと知った男は、最後に一つだけ、よいことをなしとげようとします。1954年の『七人の侍』は、貧しい農民たちが、野武士から村を守るために七人の侍を雇う物語です。史上もっとも優れた映画の一つだという人も、たくさんいます。

He was a perfectionist. It is said that he sometimes waited days for the right clouds, and that he wanted every detail on the set to be real, even things the camera would never show. Some actors and staff found him very hard to work with. People gave him the nickname the Emperor.

黒澤は完璧主義者でした。思いどおりの雲が出るまで、何日も待つこともあったといわれています。セットも、細かいところまですべて本物でなければ気がすみませんでした。カメラに映らない物まで、です。俳優やスタッフの中には、黒澤との仕事をとてもつらいと感じる人もいました。黒澤には「天皇」というあだ名がつけられました。

His films changed movies in other countries too. Seven Samurai was remade in America as a western called The Magnificent Seven. George Lucas has said that Kurosawa's The Hidden Fortress was one of the films that inspired Star Wars.

黒澤の映画は、外国の映画も変えました。『七人の侍』はアメリカで、西部劇『荒野の七人』として作り直されました。ジョージ・ルーカスは、黒澤の『隠し砦の三悪人』が『スター・ウォーズ』のもとになった映画の一つだ、と語っています。

Life was not always easy for him. From the late 1960s, he had trouble finding money for his films in Japan. But he kept working. He even made a film in the Soviet Union, Dersu Uzala, which won an Academy Award. Later, with help from foreign filmmakers who admired him, he made Kagemusha in 1980 and Ran in 1985.

黒澤の人生は、いつも順調だったわけではありません。1960年代の終わりごろからは、日本で映画の資金を集めるのに苦労しました。それでも黒澤は仕事を続けました。ソビエト連邦で『デルス・ウザーラ』を撮ったこともあり、この作品はアカデミー賞を受けました。その後、黒澤を尊敬する海外の映画人たちの助けを借りて、1980年に『影武者』、1985年に『乱』を作りました。

In 1990, at the age of eighty, he received an honorary Academy Award. In his speech, he said humbly that he still did not really understand movies and would keep working hard. He died in 1998.

1990年、80歳の黒澤は、アカデミー名誉賞を受けました。受賞のスピーチでは、自分はまだ映画というものがよく分かっていない、これからも懸命に努力したい、と謙虚に語りました。黒澤は1998年に亡くなりました。

Kurosawa showed that a story from one country can speak to people everywhere. Great stories are about people, their fear, their courage, and their kindness. Those things are the same in any language.

一つの国で生まれた物語でも、世界中の人の心に届く。黒澤はそれを証明しました。優れた物語は、人間を描きます。人間の恐れ、勇気、そして優しさを。それは、どんな言葉で語られても変わらないのです。

📖 全訳をまとめて読む 読み終わってからの答え合わせに

黒澤明は1910年、東京で8人きょうだいの末っ子として生まれました。父親は元陸軍の軍人で、教師をしていました。映画は子どものためになる、と考えていた人です。当時としては、珍しい考えでした。そのため、幼い明は家族と一緒によく映画を見に行きました。

小さいころの明はひ弱で、よく泣く子だったといわれています。ところがある日、小学校の先生が、明の描いた絵をクラスのみんなの前で褒めてくれました。これで自信がついた明は、画家になる夢を持つようになりました。

明にとって、兄の丙午(へいご)はとても大切な存在でした。丙午は弁士として働いていました。弁士とは、映画館で、音の出ない映画(無声映画)の内容を観客に語って聞かせる人です。この兄を通して、明は世界中の映画を見ました。1923年に関東大震災が起きたとき、丙午は明を連れて、壊滅した町を見に行きました。そして、むごたらしい光景から目をそらさず、しっかり見るようにさせました。恐ろしいものから目をそむけず向き合うことを兄に教わった、と明はのちに書いています。やがて音の出る映画が現れると、弁士は仕事を失いました。そして1933年、丙午は若くして亡くなりました。

明は絵を学びましたが、画家として食べていくのは大変でした。1936年、映画会社が助監督を募集している新聞広告を目にしました。応募すると、採用されました。明は山本嘉次郎監督のもとで、映画づくりを学びました。よい監督は脚本も書けなければならない、と山本は教えました。

1943年、黒澤は初めて監督した映画『姿三四郎』を発表しました。柔道を学ぶ若者の物語です。勢いのあるこの作品に、観客は夢中になりました。

大きなチャンスは、1950年の『羅生門』で訪れました。この映画では、四人の人物が同じ事件について語りますが、話はそれぞれ食い違っています。いったい誰が本当のことを言っているのか。映画会社でさえ、この作品をよく理解していませんでした。ところが1951年、『羅生門』はヴェネツィア国際映画祭で最高賞に輝きました。世界が初めて、日本映画に目を向けたのです。

それから黒澤は、名作を次々に生み出しました。1952年の『生きる』の主人公は、目立たない役所勤めの男です。自分の死が近いと知った男は、最後に一つだけ、よいことをなしとげようとします。1954年の『七人の侍』は、貧しい農民たちが、野武士から村を守るために七人の侍を雇う物語です。史上もっとも優れた映画の一つだという人も、たくさんいます。

黒澤は完璧主義者でした。思いどおりの雲が出るまで、何日も待つこともあったといわれています。セットも、細かいところまですべて本物でなければ気がすみませんでした。カメラに映らない物まで、です。俳優やスタッフの中には、黒澤との仕事をとてもつらいと感じる人もいました。黒澤には「天皇」というあだ名がつけられました。

黒澤の映画は、外国の映画も変えました。『七人の侍』はアメリカで、西部劇『荒野の七人』として作り直されました。ジョージ・ルーカスは、黒澤の『隠し砦の三悪人』が『スター・ウォーズ』のもとになった映画の一つだ、と語っています。

黒澤の人生は、いつも順調だったわけではありません。1960年代の終わりごろからは、日本で映画の資金を集めるのに苦労しました。それでも黒澤は仕事を続けました。ソビエト連邦で『デルス・ウザーラ』を撮ったこともあり、この作品はアカデミー賞を受けました。その後、黒澤を尊敬する海外の映画人たちの助けを借りて、1980年に『影武者』、1985年に『乱』を作りました。

1990年、80歳の黒澤は、アカデミー名誉賞を受けました。受賞のスピーチでは、自分はまだ映画というものがよく分かっていない、これからも懸命に努力したい、と謙虚に語りました。黒澤は1998年に亡くなりました。

一つの国で生まれた物語でも、世界中の人の心に届く。黒澤はそれを証明しました。優れた物語は、人間を描きます。人間の恐れ、勇気、そして優しさを。それは、どんな言葉で語られても変わらないのです。

日本語訳:多読ベスト

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このお話の教訓 Moral

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A story told from the heart can speak to the whole world.

心をこめて語られた物語は、世界中の人の心にとどく。

理解度チェック Quick Quiz

読み終わったら、3問だけ。間違えても大丈夫。多読は「だいたいわかる」で十分です。

Q1. What was Akira's first dream?

Q2. What is special about the story of Rashomon?

Q3. Which American film was inspired by The Hidden Fortress?

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🎥 映像・OscarsAkira Kurosawa Receives an Honorary Award: 1990 Oscarsアカデミー賞公式。1990年、ルーカスとスピルバーグから名誉賞を受ける黒澤明、約7分

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この読み物の使い方 3ステップ

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