フランス語の「〜ない」の pas は、もとは「1歩」。英語の not も、もとは「何もない」だった

読む前に予想してみよう!
フランス語の否定 ne…pas の pas は、もともと否定の意味しかない言葉だった
pas のもとの意味は「1歩」で、この意味は今も残っている。「1歩も動かない」のような使い方から、「まったく〜ない」、さらにふつうの「〜ない」に変わったと考えられている。
- 対象
- ラテン語・フランス語・英語・ドイツ語・北欧語の否定の歴史
- 規模
- 文献の例と、話し言葉の調査(1981年はトゥール地方の37人)
- 研究の種類
- 歴史言語学・社会言語学
- 確かさ
- ★★★★☆
フランス語 ne…pas(〜ない)の pas は、もとは「1歩」。英語の not も、もとは「何もない」という語。否定の言葉が弱ると別の語が足され、その語が否定の主役になって、また弱る。この流れを1917年にデンマークのイェスペルセンが指摘した。
ひとことで言うと「1歩も歩かない」の「1歩」が、フランス語の「〜ない」になった!
もくじ
フランス語で「知らない」は Je ne sais pas(ジュ・ヌ・セ・パ)。否定は ne と pas の2つではさみます。
この pas、もとの意味は「1歩」です。しかもその意味は、今のフランス語にも残っています。
英語の not も同じです。もとは nought(何もない)と同じ語でした。否定の言葉は弱ると別の語で補われ、補った語がやがて否定の主役になる。1917年、デンマークの言語学者がそう指摘しました。
01pas は「1歩」、point は「点」、mie は「パンくず」
指摘したのは、オットー・イェスペルセンです。1917年、デンマーク王立科学アカデミーの論文集の1冊として、『英語とその他の言語における否定』という本を出しました。
本の第1章の冒頭で、イェスペルセンはこう書いています。否定の歴史には「奇妙な揺れ動き」が見られる。もとの否定の語がまず弱まり、それだけでは足りないと感じられて、別の語で補強される。すると今度はその語が否定そのものと感じられ、やがて同じ道をたどる。
フランス語でその「補強」に使われたのが、動詞のあとに置く次のような語でした。
- pas:1歩
- point:点
- mie:パンくず
どれも「ほんの少し」を表す語です。ベルギーのアントワープ大学のヨハン・ファン・デル・アウウェラさんらは2015年の論文で、pas の変化をこう説明しています。
文字の記録が残る前に、まず「動く」ことを打ち消す文で使われたはずだ。「1歩も動かなかった」なら、「まったく動かなかった」ことになる。そこから pas が「まったく〜ない」という強調の意味になり、やがて強調が薄れて、ふつうの「〜ない」になった、という考え方です。
02ラテン語からフランス語まで、5つの段階
イェスペルセンは、ラテン語からフランス語への道のりを5つの段階で示しました。どれも「私は言わない」という文です。
2の段階の non も、ラテン語の時点で「否定+1つのもの」という足し算から生まれた形でした。アメリカン・ヘリテージ英語辞典の印欧語根の付録も、ラテン語の nōn を「1つのものも〜ない」という意味の *ne-oinom から説明しています。
つまり、ne から始まって、non を足し、それが ne に戻り、pas を足し、ne が落ちる。足しては弱る、をくり返しているのです。

03英語の not は「何もない」だった
英語も、ほとんど同じ道をたどりました。イェスペルセンは9〜11ページで、英語の「私は言わない」をこう並べています。
- ic ne secge:古英語。否定は動詞の前の ne だけ
- I ne seye not:中英語。動詞のあとに not を足した
- I say not:ne が消えた。イェスペルセンによれば、15世紀にはこの段階に達した
- I do not say:do を使う形
- I don't say:not が弱まった、くだけた形
ここで足された not のもとは、古英語の nāwiht・nōwiht(ナーウィヒト、ノーウィヒト)。もとの意味は「何もない」でした。英語の nought(ゼロ、何もない)と同じ語です。フランス語のように「1歩」「点」といった小さなものではなく、最初から否定の意味をもつ語を足したところが、英語の違いです。
イェスペルセンは、ドイツ語でもほぼ同じことが起きたと書いています。ni → ne…niht → nicht。この niht は、英語の not に当たる語です。
04「イェスペルセンのサイクル」という名前は1979年から
この流れは今、「イェスペルセンのサイクル」(Jespersen's cycle)と呼ばれています。ただ、名付けたのはイェスペルセン本人ではありません。1979年、言語学者エステン・ダールが、学術誌『リングイスティクス』の論文でこの名前を使いました。
その後、研究は広がりました。ファン・デル・アウウェラさんらによると、西ヨーロッパや地中海の言語だけでなく、アフリカのバントゥー諸語や、南北アメリカの言語でも、同じような流れが調べられるようになりました。
05「Je sais pas」:ne が消える変化は今も進行中
5つ目の段階「ne が消える」は、昔の話ではありません。
言語学者のウィリアム・アシュビーさんは1981年、フランスのトゥール地方の話し手37人が ne をどう使うかを分析しました。話し言葉では ne がよく落ちていました。ne を使うかどうかは、文の形、場面の改まり具合、話し手の社会的な特徴など、いくつもの条件によって変わっていました。アシュビーさんは、昔の記録とこの調査を合わせると、ne は失われつつあると考えられる、と述べています。
ファン・デル・アウウェラさんらによると、今のフランス語では、Je ne te vois pas(あなたが見えない)は改まった言い方、Je te vois pas はくだけた、とくに話し言葉の言い方です。昔の形の Je ne te vois(ne だけ)は、今では文法的に正しくありません。ne だけの形が残るのは、je ne sais(知らない)など、書き言葉のごく一部の決まった言い方です(イェスペルセン、1917年の本の7ページ)。
06どの言語も同じ道をたどるわけではない
「否定はどの言語でも同じ道をたどる」と言い切りたくなりますが、そう単純ではありません。
まず、同じ道を最後まで進むとは限りません。イェスペルセンによると、ドイツ語は ne が落ちて nicht だけになったところで止まり、主な文では否定が動詞のうしろに置かれたままです。英語は do を使う新しい形を作り、not を意味の中心になる動詞(I do not say の say)の前に置けるようにしました。
次に、足される語の種類もさまざまです。フランス語は「1歩」「点」のような小さなもの、英語は「何もない」という否定の語でした。ファン・デル・アウウェラさんらは、ほかにもいろいろな出どころがあると書いています。否定が2つ重なった段階から、1つに戻らずに、まれに3つ、4つと重なる言語まであるといいます。
そして、変化の起こり方の説明も1つではありません。イェスペルセンは、否定の語は、文の中で別の語が強く読まれるために弱く発音されやすく、相手にはっきり伝えるために何かが足される、と考えました。一方、ファン・デル・アウウェラさんらが示したのは「1歩も → まったく → ふつうの否定」と、強調の語が弱まっていく道筋です。彼らは、イェスペルセン本人がこの形で説明したわけではない、とことわっています。
07まとめ
pas は「1歩」、not は「何もない」。否定の言葉は、弱ると別の語に助けられ、その語がやがて主役になり、また弱っていきます。
イェスペルセンは1917年の本で、英語の I don't know がくだけた発音で「アイ・ドゥン・ノウ」のように縮むと、もとの否定はほとんど残っていないと書きました。そして、いつか新しい補強が必要になるかもしれない、とも書いています。その次の「1歩」は、どんな語になるのでしょうか。
08もっと知りたい人へ
- イェスペルセンのサイクル(Jespersen's cycle):否定の語が弱まり、補強され、補強した語が否定の中心になる、という流れ
- 否定の補強語・最小量表現(minimizer):pas(1歩)、point(点)、mie(パンくず)のように「ほんの少し」を表す語
- 文法化(grammaticalization):ふつうの単語が、文法の働きをする語に変わること
- 2語の否定・はさみこみ否定(bipartite negation / embracing negation):ne…pas のように、2つの語で動詞をはさんで否定する形
- 文献:Jespersen (1917) Negation in English and Other Languages / Dahl (1979) "Typology of sentence negation", Linguistics 17 / Ashby (1981) "The loss of the negative particle ne in French", Language 57 / van der Auwera (2009) "The Jespersen cycles", in Cyclical Change(John Benjamins)
よくある質問
イェスペルセンのサイクルとは何ですか?
否定の語が弱まり、別の語で補強され、補強した語がやがて否定の主役になる、という流れのことです。1917年にデンマークの言語学者オットー・イェスペルセンが指摘しました。
フランス語の ne…pas の pas はどういう意味ですか?
もとの意味は「1歩」です。「1歩も動かなかった」のように「まったく〜ない」を強める語として使われ、強調が薄れて、ふつうの「〜ない」になったと考えられています。point(点)、mie(パンくず)も同じように使われました。
英語の not の語源は何ですか?
古英語の nāwiht・nōwiht で、もとの意味は「何もない」です。英語の nought(ゼロ、何もない)と同じ語です。中英語で ne の補強として動詞のあとに足され、やがて ne が消えて not だけが残りました。
「イェスペルセンのサイクル」と名づけたのは誰ですか?
イェスペルセン本人ではありません。1979年に、言語学者エステン・ダールが学術誌『リングイスティクス』の論文でこの名前を使いました。
フランス語で ne を省略してもよいのですか?
くだけた話し言葉では、Je sais pas(知らない)のように ne がよく落ちます。Je ne te vois pas は改まった言い方、Je te vois pas はくだけた言い方です。1981年の研究は、ne は失われつつあると考えられる、と述べています。
ラテン語からフランス語まで否定はどう変わりましたか?
イェスペルセンは「私は言わない」で5段階を示しました。ne dico → non dico → jeo ne di → je ne dis pas → je dis pas です。足しては弱る、をくり返しています。
どの言語も同じ順に否定が変わるのですか?
いいえ。ドイツ語は nicht だけになったところで止まり、英語は do を使う新しい形を作りました。足される語の種類もさまざまで、否定が3つ、4つと重なる言語もまれにあります。
この研究を英語で読もう原田英語の English CornerIn standard French, you make a verb negative by putting it between two words, as in Je ne sais pas, "I…
音声
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原田英語の English Corner
この研究を英語で読もう
In French, "I don't know" is Je ne sais pas. The word pas first meant "step." Scholars think it was first used in sentences like "He didn't move a step." Later, pas just meant "not."
Today, many French speakers drop ne and say Je sais pas. English has a similar story. The word not comes from an old word for "nothing." In 1917, a Danish scholar named Otto Jespersen wrote about this pattern.
73 words ・ CEFR A2
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フランス語で「知らない」は Je ne sais pas です。pas という単語は、最初は「1歩」という意味でした。学者たちは、それが最初は「彼は1歩も動かなかった」のような文で使われたと考えています。のちに、pas は単に「〜ない」という意味になりました。
今日では、多くのフランス語話者が ne を落として Je sais pas と言います。英語にも似た話があります。not という単語は、「何もない」を表す古い単語から来ています。1917年、オットー・イェスペルセンというデンマークの学者が、このパターンについて書きました。
4択リーディングクイズ
Q1. What is the passage mainly about?
pas が「1歩」から「〜ない」になった話と、英語の not の話なので A。
Q2. What did the word pas first mean?
The word pas first meant "step." とあるので B。
Q3. In the passage, what does "drop" mean in "drop ne"?
drop ne and say Je sais pas とあり、ne を言わない(省く)ことなので B。
In standard French, you make a verb negative by putting it between two words, as in Je ne sais pas, "I don't know." The second word, pas, originally meant "step," and that meaning is still used today.
Scholars think it was first added to sentences about moving, so "not a step" meant "not at all." Over time, it became an ordinary word for "not."
Now the first word, ne, is often dropped in casual speech. In 1917, the Danish linguist Otto Jespersen described how English went down a similar road. Old English used ne before the verb. Then not, from a word meaning "nothing," was added after the verb. Finally, ne disappeared.
112 words ・ CEFR B1
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標準的なフランス語では、動詞を2つの語ではさんで否定にする。Je ne sais pas「知らない」のように。
2つ目の語 pas はもとは「1歩」という意味で、その意味は今も使われている。学者たちは、それがまず動くことについての文に加えられ、「1歩も〜ない」が「まったく〜ない」を意味したと考えている。
時がたつにつれ、それはふつうの「〜ない」を表す語になった。今では1つ目の語 ne は、くだけた話し言葉ではよく落とされる。1917年、デンマークの言語学者オットー・イェスペルセンは、英語も似た道をたどったことを説明した。古英語では動詞の前に ne を使った。それから、「何もない」を意味する語から来た not が動詞のあとに加えられた。最後に、ne が消えた。
4択リーディングクイズ
Q1. According to the passage, how did pas probably become a negative word?
"not a step" meant "not at all" から、Over time, it became an ordinary word for "not" とあるので B。
Q2. Where does the English word not come from?
not, from a word meaning "nothing" とあるので C。
Q3. What can we infer about French and English?
フランス語は pas、英語は not を足し、やがて ne が落ちたとあるので、両方とも足した語が主役になった。B。
Otto Jespersen began the first chapter of his 1917 book on negation with what he called a "curious fluctuation." A word for "not" grows weak, so speakers add something to back it up. In time, the new word is felt to be the real negative, and the same thing can happen to it. French shows every stage. Latin ne was strengthened into non, which wore down into Old French ne.
Then words for tiny things were placed after the verb: pas "step," point "point" and mie "crumb." In casual French today, ne often drops out, giving Je sais pas. A 1981 study of 37 speakers from the area around Tours found that their use of ne depended on the sentence, the situation and the speaker.
English took a similar path from ic ne secge to I say not, but then brought in do, giving I don't say. The name "Jespersen's cycle" came only in 1979, from Östen Dahl. Later research has found similar changes in Bantu languages and in languages of the Americas. A few languages even pile up three or four negative words, so the cycle does not always look the same.
193 words ・ CEFR B2
和訳を見る
オットー・イェスペルセンは、1917年の否定についての本の第1章を、彼が「奇妙な揺れ動き」と呼んだものから始めた。「〜ない」を表す語が弱くなると、話し手はそれを支えるために何かを加える。やがて新しい語が本当の否定の語だと感じられるようになり、同じことがその語にも起こりうる。フランス語はすべての段階を見せてくれる。ラテン語の ne は補強されて non になり、それがすり減って古フランス語の ne になった。
それから、ごく小さなものを表す語が動詞のあとに置かれた。pas「1歩」、point「点」、mie「パンくず」だ。今日のくだけたフランス語では ne はよく落ち、Je sais pas になる。トゥール周辺の37人の話し手を調べた1981年の研究では、ne を使うかどうかは、文、場面、話し手によって決まっていた。
英語は ic ne secge から I say not へと似た道をたどったが、その後 do を取り入れて I don't say になった。「イェスペルセンのサイクル」という名前は、1979年になってようやく、エステン・ダールによって付けられた。のちの研究では、バントゥー諸語や南北アメリカの言語でも似た変化が見つかっている。否定の語を3つや4つも重ねる言語さえ少しはあるので、サイクルはいつも同じ形に見えるわけではない。
4択リーディングクイズ
Q1. What is the passage mainly about?
否定の語が弱まり、補強され、その語が主役になるというくり返しの話なので A。
Q2. What did the 1981 study find?
their use of ne depended on the sentence, the situation and the speaker とあるので B。
Q3. Why does the writer mention languages that use three or four negative words?
so the cycle does not always look the same とあり、サイクルの形がさまざまであることを示すためなので B。
重要単語
- negativeB1形容詞否定の"I don't know" is a negative sentence.
「否定文」は a negative sentence。「後ろ向きな」の意味でも使う(a negative attitude)。 - stepA2名詞歩み、1歩The baby took her first step today.
step by step で「1歩ずつ」。フランス語の pas と同じく「歩み」の意味。 - weakenB2動詞弱くなる、弱めるThe storm weakened before it reached land.
weak(弱い)+-en(〜にする)。strengthen(強める)とセットで覚える。 - cycleB1名詞循環、くり返しWater moves in a cycle from the sea to the sky and back.
bicycle は bi-(2つ)+cycle(輪)。Jespersen's cycle は「イェスペルセンのサイクル」。 - colloquialC1形容詞話し言葉の、くだけた"Gonna" is a colloquial form of "going to."
辞書の記号 colloq. はこの語の略。formal(改まった)の反対。 - neverA2副詞一度も〜ないI have never been to Paris.
古英語の否定 ne と ever が1語になった形。neither・nor・none も同じ仲間。
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フランス語で「知らない」は Je ne sais pas。この pas、もとは「1歩」という意味の語。話し言葉では ne が消えて Je sais pas になりつつある。英語の not も、もとは nought(何もない)。否定の言葉が弱ると別の語が足され、足された語が主役になる。1917年にデンマークの言語学者イェスペルセンが指摘した流れだ。
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出典・参考文献(5件)タップで表示
- Jespersen O. (1917) Negation in English and Other Languages, Det Kgl. Danske Videnskabernes Selskab, Historisk-filologiske Meddelelser I, 5, København: Høst(Internet Archive 所蔵の原本)archive.org
- van der Auwera J., Vossen F. (2015) Negatives between Chamic and Bahnaric, Journal of the Southeast Asian Linguistics Society 8: 24–38(オーストラリア国立大学リポジトリ・全文公開)openresearch-repository.anu.edu.au
- Dahl Ö. (1979) Typology of sentence negation, Linguistics 17doi.org
- Ashby W.J. (1981) The loss of the Negative Particle ne in French: A Syntactic Change in Progress, Language 57(3)doi.org
- The American Heritage Dictionary「Appendix I: Indo-European Roots」(ne)ahdictionary.com
※本記事は上記の研究・公開資料をもとに、原田英語が独自の言葉で解説したものです。引用は著作権法第32条の範囲で行い、出典を明記しています。画像はすべてオリジナルのイメージです。研究結果には限界や個人差があります。誤りのご指摘は原田英語のお問い合わせフォームから。
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