Native Americans and the Birth of America ・ 2/5

同盟から戦争へ:マサソイトの息子メタコムは、なぜ入植者と戦ったのか

父は入植者と手を結び、息子は入植者と戦った。50年のあいだに何が変わったのか。

1621年、ワンパノアグの指導者ウサメクィン(マサソイト)とプリマスの入植者は「おたがいに助け合う」と約束しました。約束は、ウサメクィンが亡くなるまで40年ほど守られます。ところが1675年、息子のメタコムが入植者との戦争に立ち上がり、翌年に殺されました。その首は、プリマスの町で20年以上さらされたといいます。同盟がなぜ壊れたのかを、先住民どうしの同盟や対立もふくめてたどり、今も続くワンパノアグの人々の歩みまで紹介します。

1同盟はなぜ壊れた? 50人だった入植者が20年で1万人に

1621年に同盟を結んだとき、プリマスの入植者は50人ほど。ウサメクィンにとっては、ナラガンセットに対抗するための小さな仲間でした。同盟はよく守られます。1623年にウサメクィンが重い病気になると、プリマスのエドワード・ウィンズロウが看病にかけつけ、回復した彼は「イギリス人は友だちだ」と言ったと記録されています。

流れを変えたのは、1630年に始まるピューリタンの大移住です。マサチューセッツ湾植民地の人口は、1630年の約500人から1640年には約9,000人へ。プリマスも1,000人をこえました。20年前に50人だった入植者が、1万人近くになったのです。

人が増えれば、土地がいります。ここに大きなすれ違いがありました。ワンパノアグにとって土地は、村のみんなで狩りや漁、畑に使うもの。家と畑の区画もありましたが、その多くは畑をつくる女性のものとされていました。一方の入植者は、土地の取り引きを「持ち主が永久に変わること」と考えて証書に残します。同じ取り引きを、ワンパノアグの多くはそう理解していなかった、とプリマスの博物館は説明しています。さらに、囲いのない入植者のウシやブタが先住民のトウモロコシ畑を荒らしました。

入植者の中にも、疑問を持つ人がいました。牧師ロジャー・ウィリアムズは「先住民から買わずに、国王の許可状だけで土地を自分のものにはできない」と主張し、1635年にマサチューセッツ湾植民地から追放の判決を受けます。彼はナラガンセットの首長たちから土地を買い、1636年にプロビデンスの町をつくりました。

2ピークォット戦争とミスティックの虐殺(1637年):先住民どうしの同盟も

1637年5月26日(当時の暦)の夜明け前、今のコネチカット州のミスティック川近くの丘にあったピークォットの砦を、入植者の兵が取り囲みました。率いたのはジョン・メイソンとジョン・アンダーヒル。兵は砦に火を放ち、逃げ出す人を外で討ちます。中にいたのは、多くが女性や子ども、お年寄りでした。殺されたピークォットは400〜700人と推定されています。メイソンは、燃える砦を「燃えさかるかまど」のようだったと書きました。

この戦いには、先住民も入植者の側で加わっていました。ピークォットと争っていたモヒガンの首長アンカスが約70人を出し、ナラガンセットなどからも200人以上が加わります。ナラガンセットは、ロジャー・ウィリアムズの説得で、ピークォットではなく入植者と組む道を選んでいました。ところがその味方でさえ、虐殺を見て「激しすぎる。殺しすぎだ」と抗議したと記録されています。

1638年の条約で、生き残ったピークォットはモヒガンやナラガンセットなどに分けて引き取られ、「ピークォット」と名乗ることさえ禁じられました。バミューダや西インド諸島へ奴隷として送られた人もいます。それでもピークォットは消えませんでした。今もコネチカット州には、連邦政府が認めるマシャンタケット・ピークォットの部族国家があります。

先住民どうしの同盟も、長くは続きません。1642年、ナラガンセットのミアントノモは「私たちの父の時代には、平原はシカでいっぱいだった」と語り、先住民が力を合わせるよう呼びかけました。翌年、彼はアンカスに捕らえられて入植者に引き渡され、ボストンの牧師たちの意見をもとに、アンカスの弟の手で殺されます。

3祈りの町とアメリカ最初の聖書:先住民の言葉で印刷された

今のアメリカで最初に印刷された聖書は、英語ではありません。1663年に完成したその聖書は、先住民の言葉、マサチューセット語で書かれていました。ワンパノアグの人々の言葉(ウォパナアク語)と同じ言語です。タイトルは「Mamusse Wunneetupanatamwe Up-Biblum God」。1,000部が印刷されました。

訳したのは、ロクスベリーの牧師ジョン・エリオット。1646年から先住民の言葉で説教を始め、先住民の協力者たちと翻訳を進めました。手伝ったのは、コケノー、ハーバード大学で1年学んだジョン・サッサモン、ジョブ・ネスートン、そしてニプマックのジェームズ・プリンター。プリンターは印刷の作業も担いました。

エリオットたちは、キリスト教を受け入れた先住民が暮らす祈りの町(praying towns)もつくります。1651年のネイティックなどに始まり、1675年までにマサチューセッツ湾植民地だけで14の町ができました。ネイティックでは1720年まで、町の記録が先住民の言葉で書かれていました。

ただし、祈りの町で暮らすには、それまでの服装や宗教、暮らし方を捨てることが求められました。信仰と引きかえに、文化を手放させる仕組みでもあったのです。のちにメタコムは、自分の民が「むりやりキリスト教徒にさせられる」ことを拒みました。そして戦争の引き金となる事件の中心にいたのも、この聖書の翻訳を手伝ったサッサモンでした。

4フィリップ王戦争の始まり:メタコムはなぜ立ち上がったのか

1661年ごろ、40年にわたって同盟を守ったウサメクィンが亡くなります。後をついだ長男ワムスッタは、無断で土地の取り引きをしたとしてプリマスの法廷に呼び出されて取り調べを受け、その後まもなく病気になって亡くなりました。弟のメタコムは「兄は毒を盛られた」と信じていたといいます。

この兄弟は、プリマスの法廷でアレクサンダーとフィリップというイギリス風の名前をつけられていました。どちらも古代マケドニアの王と同じ名前です。入植者が弟を「フィリップ王」と呼んだのは、ここからです。

1671年、メタコムはプリマスに武器の多くを差し出させられ、イギリスの法に従うことも約束させられます。1675年1月、キリスト教徒の先住民で通訳のサッサモンが「メタコムが攻撃を計画している」とプリマスの総督に知らせ、まもなく池で遺体で見つかりました。6月、メタコムの部下とされる3人が、入植者12人と先住民の長老6人の陪審で有罪とされ、処刑されます。その直後、スウォンジーの町への襲撃から戦争が始まりました。

戦いはニューイングランド全体に広がり、半分以上の町が攻撃を受けて、12の町が壊されます。ただし、先住民がみなメタコムについたわけではありません。モヒガンやピークォット、祈りの町の多くの人々は入植者の側で戦い、サコネットの女性首長アワションクスも、メタコムから仲間に誘われながら、最後は入植者と手を結びました。中立を約束していたナラガンセットは、メタコムの仲間をかくまったとして1675年12月に攻められ、女性や子どもをふくむ数百人が殺されます。翌年3月、ナラガンセットはプロビデンスの町を焼き、ロジャー・ウィリアムズの家も燃えました。

5フィリップ王戦争の結末:さらされた首と、カリブ海へ売られた人々

入植者は、中立を守っていた祈りの町の人々まで疑いました。1675年から76年の冬、500〜1,100人の先住民が、ボストン湾のディア島に閉じこめられます。多くは女性と子どもでした。食べ物も住まいも足りず、約半数が亡くなりました。

1676年8月12日、メタコムはふるさとのマウント・ホープ近くの沼地で、入植者側についた先住民ジョン・オールダマンに撃たれて死にます。遺体は切り分けられ、首はくいにさされてプリマスの町に20年以上さらされました。妻と幼い息子は捕らえられ、奴隷として売られたと伝えられています。

死者の数は資料によって大きく違います。ある推計では、入植者は約8万人のうち約600人、先住民は約1万人のうち約3,000人が亡くなりました。人口の約0.75%と約30%です。マッシュピー・ワンパノアグ族は、この戦争でワンパノアグの4割以上が失われたとしています。植民地時代のアメリカで最も死者の多い戦争とみる人も少なくありません。

生き残った先住民の多くも、バミューダ、バルバドス、ジャマイカ、スペインなどへ奴隷として売られました。プリマスの博物館によると、今もカリブ海には、このとき送られたワンパノアグの子孫が暮らしています。土地の多くを失ったワンパノアグは、その後も入植者が決めた「後見人」に土地を売られるなど、長く苦しい時代を生きることになりました。

6全米追悼の日とウォパナアク語の復活:ワンパノアグは今も

1970年、メイフラワー号の到着350年を祝う式典で、マサチューセッツ州はアキナのワンパノアグ、ワムスッタ・フランク・ジェームズにスピーチを頼みました。ところが原稿を読んだ担当者は、そのまま話すことを許しません。原稿には、最初の冬に入植者が先住民の墓をあばいたことなどが書かれていたからです。

11月26日の感謝祭の日、ジェームズはプリマスのコールズ・ヒル、ウサメクィンの像のそばで、書き直したスピーチをしました。集まった先住民は500人近く。「私たちは国を失った」と語った彼は、この日を新しい始まりにしようと呼びかけます。これが全米追悼の日の始まりで、今も毎年同じ丘で開かれています。コールズ・ヒルは、最初の冬に亡くなった入植者たちが葬られた丘でもあります。

ワンパノアグは今も、ふるさとで暮らしています。ケープコッドのマッシュピー・ワンパノアグ族は2007年に連邦政府から部族として認められ、市民は約3,200人。マーサズ・ヴィニヤード島のアキナのワンパノアグ族は、1987年に認められました。

言葉もよみがえりつつあります。19世紀の終わりに最後の話し手が亡くなったウォパナアク語を取りもどそうと、マッシュピーのジェシー・リトル・ドウ・ベアードが1993年にプロジェクトを始めました。手がかりにしたのは、エリオットの聖書や、先住民の言葉で書かれた土地の証書などの古い文書です。2014年には、この言葉を母語として育つ子どもたちが、100年以上ぶりに生まれていました。

🕰️Timeline年表

  1. 1621年ウサメクィン(マサソイト)とプリマスの入植者が同盟を結ぶ。
  2. 1630年ピューリタンがマサチューセッツ湾植民地へ。約10年で約2万人が移り住む。
  3. 1637年ピークォット戦争。ミスティックの砦が焼かれ、400〜700人のピークォットが殺される。
  4. 1651年キリスト教を受け入れた先住民の「祈りの町」ネイティックができる。
  5. 1661年ごろウサメクィンが亡くなる。長男ワムスッタが後をつぐ。
  6. 1662年ワムスッタがプリマスで取り調べを受けたあと、病気で急死する。弟メタコムが指導者に。
  7. 1663年エリオットがマサチューセット語に訳した聖書が完成。今のアメリカで最初に印刷された聖書。
  8. 1675年6月サッサモン殺害の罪で3人が処刑された直後、フィリップ王戦争が始まる。
  9. 1676年8月12日メタコムがマウント・ホープ近くで殺される。首はプリマスに20年以上さらされる。
  10. 1970年11月26日ワムスッタ・フランク・ジェームズらがプリマスで最初の「全米追悼の日」を開く。
  11. 1993年ウォパナアク語を取りもどすプロジェクトが始まる。
  12. 2007年マッシュピー・ワンパノアグ族が連邦政府に部族として認められる(アキナは1987年)。

👤Peopleこの話の人物

メタコム(フィリップ王)Metacom (King Philip) ・ 1638ごろ〜1676
ワンパノアグの指導者

ウサメクィンの次男。1662年に指導者となり、土地を失い武器を差し出させられる中で、1675年に入植者との戦争を始めた。1676年に殺され、首はプリマスでさらされた。

アンカスUncas ・ 1588ごろ〜1683ごろ
モヒガンの首長

ピークォットと争い、入植者と組んでピークォット戦争を戦った。入植者との同盟を使ってモヒガンをコネチカット南部でいちばん力のある部族にし、フィリップ王戦争でも入植者の側についた。

ロジャー・ウィリアムズRoger Williams ・ 1603ごろ〜1683
牧師・プロビデンスの創設者

先住民から買わずに土地を取ることを批判し、マサチューセッツ湾植民地から追放された。ナラガンセットと親しく、1643年には先住民の言葉の本を出版した。

ジョン・エリオットJohn Eliot ・ 1604ごろ〜1690
牧師・聖書の翻訳者

先住民の言葉で説教し、先住民の協力者とともに聖書をマサチューセット語に訳した。祈りの町づくりの中心となり、同時に先住民の文化を手放させることにもなった。

ワムスッタ・フランク・ジェームズWamsutta Frank James ・ 1923〜2001
アキナのワンパノアグの指導者

1970年、メイフラワー号350年の式典でのスピーチを止められ、プリマスのコールズ・ヒルで先住民の思いを語った。これが今も続く全米追悼の日の始まりになった。

ジェシー・リトル・ドウ・ベアードJessie Little Doe Baird ・ 1963〜
ウォパナアク語の復興者

マッシュピー・ワンパノアグ族。祖先が知らない言葉で語りかける夢を見たのをきっかけに、1993年に言葉を取りもどすプロジェクトを始めた。2010年にマッカーサー財団の賞を受けた。

🔊Read in English英語で読もう:From Friends to Enemies

このページの話を、やさしい英語(CEFR A2)で。▶で英文をタイトルから通して聞けます。「和訳」ボタンで日本語訳を表示できます。

From Friends to Enemies

CEFR A2
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234 words

In 1621, the Wampanoag leader Ousamequin made a promise with the English at Plymouth. They agreed to help each other in times of war. The promise lasted for about 40 years. But during that time, more and more English people came. In 1621, there were about 50 settlers at Plymouth. By 1640, there were almost 10,000 English people in the area.

1621年、ワンパノアグの指導者ウサメクィンは、プリマスのイギリス人と約束を結びました。戦いのときにはおたがいに助け合うことにしたのです。その約束は40年ほど続きました。でもそのあいだに、イギリス人はどんどん増えていきました。1621年、プリマスの入植者は約50人でした。1640年には、その地域のイギリス人は1万人近くになっていました。

The English needed land for their farms and animals. They thought that buying land meant owning it forever. Many Native people did not see it that way. English animals also walked into Native cornfields and damaged them. Some Native nations, like the Mohegan, worked with the English. Other nations, like the Pequot, fought against them.

イギリス人には、畑と家畜のための土地が必要でした。彼らは、土地を買うことは永久に自分のものにすることだと考えていました。多くの先住民は、そうは考えていませんでした。イギリス人の家畜は、先住民のトウモロコシ畑に入りこんで荒らしもしました。モヒガンのように、イギリス人と組んだ先住民の国もありました。ピークォットのように、イギリス人と戦った国もありました。

Ousamequin died around 1661, and later his son Metacom became the leader. The English called him King Philip. In 1675, a war started between his people and the English. Thousands of Native people died, and many English settlers died too. Many others were sold as slaves and sent to islands in the Caribbean. In 1676, Metacom was killed. The English put his head on a pole in Plymouth for more than 20 years.

ウサメクィンは1661年ごろに亡くなり、やがて息子のメタコムが指導者になりました。イギリス人は彼をフィリップ王と呼びました。1675年、彼の人々とイギリス人のあいだで戦争が始まりました。何千人もの先住民が亡くなり、多くのイギリス人入植者も亡くなりました。ほかにも多くの人が奴隷として売られ、カリブ海の島々へ送られました。1676年、メタコムは殺されました。イギリス人は彼の首をくいにさし、20年以上もプリマスにさらしました。

But the Wampanoag did not disappear. Since 1970, some Native people have met in Plymouth on Thanksgiving Day for a National Day of Mourning. In 1993, a Wampanoag woman began to bring back her people's old language. Today, children are learning to speak it again.

それでも、ワンパノアグは消えませんでした。1970年から、一部の先住民は感謝祭の日にプリマスに集まり、「全米追悼の日」を開いています。1993年には、あるワンパノアグの女性が、自分たちの昔の言葉を取りもどす活動を始めました。今、子どもたちがふたたびその言葉を話せるようになっています。

❓FAQよくある質問

フィリップ王戦争とは何ですか?

1675〜1676年に、ワンパノアグの指導者メタコム(イギリス人の呼び名はフィリップ王)とニューイングランドの入植者のあいだで起きた戦争です。土地をめぐる対立などが原因で、先住民も入植者も多くの命を失いました。メタコムは1676年8月に殺され、戦いは南ニューイングランドではほぼ終わりました。

なぜ1621年の同盟は戦争になってしまったのですか?

大きな理由は、入植者の急増と土地の問題です。1630年からピューリタンが大勢移住し、入植者は20年で約50人から1万人近くに増えました。土地の考え方の違いや家畜による畑の被害、武器の差し出しや法廷での扱いへの不満が積み重なりました。

ピークォット戦争とは何ですか?

1636〜1638年に、今のコネチカット州のピークォットと、入植者およびその味方のモヒガン・ナラガンセットのあいだで起きた戦争です。1637年のミスティックの虐殺では、女性や子どもをふくむ400〜700人のピークォットが殺されました。

アメリカで最初に印刷された聖書は何語ですか?

先住民の言葉、マサチューセット語です。牧師ジョン・エリオットが先住民の協力者とともに訳し、1663年に完成しました。ワンパノアグの言葉と同じ言語で、今では言葉を取りもどす手がかりにも使われています。

ワンパノアグの人々は今もいますか?

います。マッシュピー・ワンパノアグ族(2007年に連邦政府が承認、市民約3,200人)とアキナのワンパノアグ族(1987年に承認)などが、マサチューセッツ州のふるさとで暮らしています。1993年からは、ウォパナアク語を取りもどす活動も続いています。

全米追悼の日とは何ですか?

1970年から毎年、感謝祭の日にプリマスのコールズ・ヒルで先住民が開いている集まりです。メイフラワー号350年の式典でスピーチを止められたワンパノアグのワムスッタ・フランク・ジェームズが始まりで、先住民が失ったものを思う日とされています。

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