
Native Americans and the Birth of America ・ 1/5
メイフラワー号とワンパノアグ:102人の船が着いた海辺に、だれがいた?
嵐で梁が裂けた船がたどり着いた浜辺は、疫病で人が消えた村の跡だった。
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ライデンの分離派の人々が、小さな船スピードウェル号に乗りこみ、イギリスへ向けて出発する。
The Separatists from Leiden left the Netherlands on a small ship, the Speedwell.
航海の記録を一覧で見る(9か所)
- 1620年8月1日(当時の暦では7月22日) デルフスハーフェン(オランダ)
ライデンの分離派の人々が、小さな船スピードウェル号に乗りこみ、イギリスへ向けて出発する。
The Separatists from Leiden left the Netherlands on a small ship, the Speedwell. - 1620年8月15日(当時の暦では8月5日) サウサンプトン(イギリス)
メイフラワー号と合流し、2隻でアメリカへ出航。しかしスピードウェル号はすぐに水もれを起こす。
The Mayflower and the Speedwell sailed together, but the Speedwell soon began to leak. - 1620年8月下旬 ダートマス(イギリス)
水もれを直すため港に入る。仲間のクッシュマンは「ざるのように水がもる」と手紙に書いた。
The ships stopped here to fix the leaking Speedwell. - 1620年9月はじめ ランズエンドの沖(位置はおおよそ)
ランズエンドから200〜300マイル進んだところで、スピードウェル号がまた水もれ。2隻とも引き返す。
Far out at sea, the Speedwell leaked again, so both ships turned back. - 1620年9月16日(当時の暦では9月6日) プリマス(イギリス)
スピードウェル号をあきらめ、メイフラワー号が乗客102人を乗せて1隻だけで出航する。
The Mayflower left Plymouth alone with 102 passengers. - 1620年10月ごろ(航海のなかば) 大西洋のなかば(位置はおおよそ)
嵐で太い梁が曲がってひび割れ、鉄のねじで直す。嵐の中でジョン・ハウランドが海に落ち、綱につかまって助かる。
In the storms, a big beam cracked, and a young man fell into the sea but was saved. - 1620年11月19日(当時の暦では11月9日) ケープコッドの南東の沖(位置はおおよそ)
ついに陸地ケープコッドが見える。南のハドソン川方面へ向かうが、危ない浅瀬と荒波にはばまれて引き返す。
They saw land at Cape Cod, but dangerous water stopped them from going south. - 1620年11月21日(当時の暦では11月11日) ケープコッドの先端(今のプロビンスタウン)
出航から66日で錨を下ろす。陸に上がる前に、大人の男性41人がメイフラワー誓約に署名する。
The ship stopped here, and 41 men signed the Mayflower Compact. - 1620年12月21日(当時の暦では12月11日) プリマス(今のマサチューセッツ州)
調査隊がプリマス湾に上陸。12月26日には船も入り、パタクセット村の跡に町をつくり始める。
The settlers landed at Plymouth and built homes where a Wampanoag village had been.
1ピルグリムはなぜ海を渡った? 教会を抜けると罪になった時代
日曜日に教会へ行かないと罰金。自分たちだけで礼拝を開くと牢屋行き。17世紀はじめのイギリスでは、それが法律でした。教会はイギリス国教会ひとつだけ。1593年には、国教会から離れることを説いた3人が、国に逆らった罪で処刑されています。
それでも、イングランド北部の村スクルービーでは、1606年ごろからウィリアム・ブルースターが住む館に人々がひそかに集まり、国教会とは別の礼拝を開いていました。国教会から「分かれる」ので分離派と呼ばれます。ブルースターは罰金を科され、仲間の中には捕まる人や、家を昼も夜も見張られる人も出ました。
彼らはオランダへの脱出を決めます。1607年の秋、最初の試みは失敗しました。雇った船の船長が役人に密告し、一行は身ぐるみはがされ、多くは1か月、中心の7人はさらに長く牢屋に入れられたのです。1608年の2度目は、兵士が近づくのを見た船長が、先に乗った男たちだけを連れて船を出してしまいます。岸に残された女性と子どもは捕まりました。船は嵐に流され、オランダの港に着くまで14日以上。そのうち7日は、太陽も月も星も見えなかったと記録されています。
1609年、一行は大学の町ライデンに落ちつきます。多くは布をつくる仕事で、苦しい暮らしを続けました。やがて、貧しさ、子どもたちがオランダ人になっていく不安、スペインとの休戦が終わり戦争が近づく気配から、彼らは海の向こうに自分たちの町をつくろうと考えます。
2ピルグリムとピューリタン(清教徒)の違い:船の半分は「よそ者」だった
「ピルグリム・ファーザーズ=清教徒」と説明されることがよくありますが、正確には少し違います。
ピューリタン(清教徒)は、イギリス国教会の中に残ったまま、教会を「清める(purify)」改革をめざした人々です。分離派は、国教会はもう直せないと考え、外に出て自分たちの教会をつくった人々。考え方の根っこは近く、分離派をピューリタンの中のいちばん急な一派とみる説明もあります。でも、国教会に残るか出るかで、法律上の立場はまったく違いました。メイフラワー号の中心にいたのは分離派です。「ピューリタンの迫害」と言うときも、国教会に従わない人々が国と国教会から罰せられた、という意味です。
もう1つの誤解は「乗客全員が信仰のために海を渡った」というもの。ライデンから来た人は102人の約半分でした。残りは、航海にお金を出したロンドンの商人たちが集めた職人や召使い、親と離れた子どもたちです。ブラッドフォードの記録も、こうした人々を「よそ者(strangers)」と書いています。
ピューリタンが大勢で海を渡るのは10年後です。1630年、ジョン・ウィンスロップ率いる700人以上の船団がマサチューセッツ湾植民地へ向かい、それから10年ほどで約2万人が移り住みました。これが「大移住」です。プリマスの人口は1630年でも300人ほど。ボストンを中心とするピューリタンの植民地は、すぐにずっと大きくなりました。
「ピルグリム(巡礼者)」という呼び名は、ブラッドフォードが書いた「彼らは自分たちが巡礼者だと知っていた」という一文から。乗客全体をこう呼ぶのが広まったのは1800年ごろからです。
3メイフラワー号の航海:66日間、102人と1本の「鉄のねじ」
1620年8月15日、メイフラワー号とスピードウェル号はイギリス南部のサウサンプトンを出ました。ところがスピードウェル号がすぐに水もれを起こします。仲間のロバート・クッシュマンは「ざるのように水がもる」と書きました。修理してやり直しても、ランズエンドの200〜300マイル沖でまたもれ出し、2隻はプリマスの港へ引き返します。スピードウェル号はあきらめられ、クッシュマンをふくむ一部の人はここで旅をやめました。
9月16日、メイフラワー号は1隻だけでプリマスを出ます。長さ30メートルほど、もとはフランスのワインを運んでいた商船です。乗客102人と乗組員30人ほど。乗客は甲板の下の暗くて寒い荷物用の空間に、すし詰めになりました。
大西洋のなかばで、嵐が船の真ん中の太い梁を曲げ、ひびを入れます。引き返すべきか話し合いになったとき、乗客がオランダから持ってきた大きな鉄のねじで梁を押し上げ、柱で支えて、航海を続けることになりました。
別の嵐の日、若い召使いジョン・ハウランドが波にさらわれて海に落ちます。彼は船の外に垂れていた帆の綱をつかんで離さず、海の中から引き上げられ、かぎざおで甲板にもどされました。ハウランドはその後50年以上生き、子孫にはフランクリン・ルーズベルト大統領やブッシュ親子がいるとされます。
船の上では、死と誕生もありました。船酔いの乗客をあざけっていた若い水夫が、航海の半分も来ないうちに病気で死にます。陸が近づいたころ、召使いの少年ウィリアム・バトンが亡くなりました。乗客の死者は彼1人です。一方、エリザベス・ホプキンスが男の子を産み、オーシャナス(ラテン語で「大洋」)と名づけられました。
4メイフラワー誓約とプリマス上陸:陸に上がる前に「約束」を書いた理由
1620年11月19日(当時の暦では11月9日)、ついに陸が見えました。ケープコッドです。でも、彼らがめざしていたのはもっと南、ハドソン川のあたりでした。船は南へ向かいますが、半日ほどで危ない浅瀬と荒波にはばまれ、引き返します。
ここで問題が起きます。「よそ者」の何人かが、「陸に上がったら好きにやる。だれにも命令する権利はない」と言い出したのです。もらっていた入植の許可は、ここより南の土地のものでした。
そこで11月21日、ケープコッドの先端(今のプロビンスタウン)の港に錨を下ろしたその日、大人の男性41人が1枚の約束に署名します。全員で1つの「市民の団体」をつくり、みんなのための正しい法律に従う、という内容です。これがメイフラワー誓約。分離派も「よそ者」も署名しました。原本は残っておらず、文章は1622年に出た本などで伝わっています。
それから約1か月、男たちは小舟で海岸を調べて回ります。途中で、先住民が地中に蓄えていたトウモロコシを見つけて種として持ち去り、墓を掘り返したこともありました。30〜40人の先住民と、矢と銃を撃ち合う事件も起きています。
12月21日(当時の暦では12月11日)、調査隊がプリマス湾の岸に上がりました。すでに木が切りはらわれた土地です。12月26日にはメイフラワー号も湾に入ります。「プリマス・ロック」という岩に降り立った話が有名ですが、17世紀の記録に岩は出てきません。ここが上陸地だと言われ出したのは1741年、94歳の老人の証言からでした。
5ワンパノアグから見たメイフラワー号:消えた村パタクセット
ワンパノアグは「最初の光の人々」という意味の名前です。1600年代はじめ、今のマサチューセッツ州南東部からロードアイランド州東部にかけて、67の村に最大4万人が暮らしていたとされます。冬は森や谷で、春から秋は川や海の近くで畑をつくり、魚をとる暮らしでした。
その世界を、1616〜1619年の疫病がおそいます。ヨーロッパの漁師や探検家が持ちこんだ病気で、ワンパノアグは人口の少なくとも75%、多ければ90%を失ったとみられます。プリマス湾にあったパタクセット村には、2,000人ほどが暮らしていたとされます。1605年にフランスの探検家シャンプランが描いた地図には、家々と畑が並んでいます。15年後、メイフラワー号の人々が町をつくったのは、ほぼ全員が亡くなったこの村の跡でした。
ワンパノアグには、イギリス人を警戒する理由もありました。1614年、イギリス人の船長トマス・ハントが、取り引きと言ってパタクセットの約20人を船に乗せ、さらにケープコッドの7人を捕らえて、スペインへ連れて行って売ったのです。1621年、入植者に会ったケープコッドのある女性は、ハントに2人の息子を連れ去られて以来会えていないと訴えました。
一方、入植者の最初の冬は悲惨でした。船で寝起きしながら病と寒さに倒れ、春までに乗客は53人に減ります。亡くなった人たちは、村の跡の丘コールズ・ヒルに葬られました。
6サモセットの「Welcome」は本当? 1621年の同盟が結ばれるまで
1621年3月26日(当時の暦では3月16日)、1人の先住民が入植者の村に堂々と歩いてきて、英語で話しかけました。サモセットです。
よく「Welcome, Englishmen!(ようこそ、イギリス人のみなさん)」と言ったと紹介されます。でも1622年に出た当時の記録にあるのは、「英語でわれわれにあいさつし、歓迎した」という書き方です。歓迎したのは本当ですが、正確なせりふは残っていません。ブラッドフォードは「片言の英語で話し、よく通じたので驚いた」と書いています。
しかもサモセットはワンパノアグではありません。北のメイン地方に住むアベナキの首長で、魚をとりに来るイギリス人の漁師から英語を覚えていました。ビールを求めたので、強い酒とビスケットを出した、という記録まで残っています。
6日後の4月1日(当時の暦では3月22日)、サモセットとティスクァンタム(スクァント)の仲立ちで、ウサメクィン(マサソイト)が弟のクアデクィナや約20人の男たちを連れて現れ、同盟を結びました。おたがいを傷つけない、どちらかが攻められたら助けに行く、会いに来るときは弓矢を置いてくる、といった約束です。
疫病で弱ったワンパノアグは、病をほとんどまぬがれたナラガンセットから、貢ぎ物を求められていました。新しい仲間は、その圧力に対抗する手でもあったのです。ブラッドフォードは20年以上あとに、この平和が「今も24年続いている」と書いています。その後の同盟の行方は、次のページで。
🕰️Timeline年表
- 1606年ごろスクルービーのブルースターの館で、国教会から分かれた分離派の礼拝が始まる。
- 1607〜1608年オランダへの脱出に一度失敗して1か月牢屋に。2度目で海を渡る。
- 1609年分離派の人々がオランダのライデンに移り住む。
- 1614年イギリス人の船長ハントが、パタクセットなどの人々を連れ去り、スペインで売る。
- 1616〜1619年疫病でワンパノアグの人口が大きく減り、パタクセット村がほぼ消える。
- 1620年8月15日メイフラワー号とスピードウェル号がサウサンプトンを出航(スピードウェル号の水もれで引き返す)。
- 1620年9月16日メイフラワー号が1隻だけでプリマス(イギリス)を出航。乗客102人。
- 1620年11月21日ケープコッドの先端に錨を下ろし、41人がメイフラワー誓約に署名。
- 1620年12月21日調査隊がプリマス湾に上陸。パタクセット村の跡に町をつくり始める。
- 1621年3月26日アベナキの首長サモセットが、英語で入植者にあいさつする(当時の暦では3月16日)。
- 1621年4月1日ウサメクィン(マサソイト)とプリマスの入植者が同盟を結ぶ(当時の暦では3月22日)。
- 1630年ピューリタンがマサチューセッツ湾植民地へ。約10年で約2万人が移り住む「大移住」が始まる。
👤Peopleこの話の人物
12歳ごろから分離派の教えにひかれ、17歳ごろ仲間とオランダへ渡った。ライデンをへてメイフラワー号に乗った。約30年にわたって総督をつとめ、記録『プリマス植民地について』を残した。妻ドロシーはケープコッドの港で船から落ちて亡くなった。
スクルービーの館に分離派を集め、礼拝に出なかったとして罰金を科された。ライデンではイギリスで禁じられた本を印刷し、国王に追われて身をかくした。プリマスでは教会の中心となった。
航海中の嵐で海に落ちたが、帆の綱をつかんで助かった。メイフラワー誓約にも署名した。ブラッドフォードは、彼がのちに教会と植民地の役に立つ人になったと書いている。子孫には大統領が何人もいるとされる。
今のメイン州の人で、イギリス人の漁師から英語を覚えた。1621年3月、プリマスの入植者に英語であいさつし、ウサメクィンとの会見の橋わたしをした。
「マサソイト」は名前ではなく「偉大な首長」という称号。疫病で弱った人々を守るため、1621年にプリマスの入植者と同盟を結び、亡くなるまで約40年それを守った。
🔊Read in English英語で読もう:The Ship, the Storm, and the Empty Village
このページの話を、やさしい英語(CEFR A2)で。▶で英文をタイトルから通して聞けます。「和訳」ボタンで日本語訳を表示できます。
❓FAQよくある質問
メイフラワー号はいつ、どこからどこへ行ったのですか?
1620年9月16日にイギリスのプリマスを出て、66日後の11月21日に今のアメリカ・マサチューセッツ州のケープコッドの先端に着きました(当時の暦ではそれぞれ9月6日と11月11日)。その後、12月にプリマス湾に移って町をつくりました。
ピルグリムとピューリタン(清教徒)の違いは何ですか?
ピューリタンはイギリス国教会の中に残って教会を改革しようとした人々、ピルグリムの中心だった分離派は国教会から出て別の教会をつくった人々です。メイフラワー号は分離派が中心で、ピューリタンが大勢移住したのは1630年のマサチューセッツ湾植民地からです。
メイフラワー号には何人乗っていましたか?
乗客は102人で、ほかに乗組員が30人ほどいました。乗客のうちライデンから来た分離派は約半分で、残りは職人や召使いなどでした。最初の冬に約半分が亡くなり、春まで生き残った乗客は53人でした。
メイフラワー誓約とは何ですか?
1620年11月、上陸の前に船の上で大人の男性41人が署名した約束です。全員で1つの団体をつくり、みんなのための法律に従うと決めました。一部の乗客が「だれにも命令する権利はない」と言い出したため、秩序を保つ目的で書かれました。
サモセットは本当に「Welcome」と言ったのですか?
歓迎したのは本当ですが、正確なせりふは記録に残っていません。1622年の記録には「英語でわれわれにあいさつし、歓迎した」とあります。サモセットはメイン地方のアベナキの人で、イギリス人の漁師から英語を覚えていました。
ピルグリムはプリマス・ロックに上陸したのですか?
17世紀の記録には、プリマス・ロックは出てきません。この岩が上陸地だとされたのは1741年、94歳の老人の証言がきっかけでした。調査隊がプリマス湾に上陸したのは1620年12月21日(当時の暦では12月11日)です。
▶️Videos & Links動画とリンク集
Deconstructing History: Mayflower | HistoryHISTORY
The Pilgrims and the Mayflower CompactPursuit of History
Mayflower Compact: Roots of Our DemocracyNBC News Learn
▶ YouTubeで「Mayflower voyage 1620 documentary」をもっと見る
Mayflower and Mayflower Compact - Plimoth Patuxet Museumsプリマスの歴史博物館の学生向け解説。66日の航海、鉄のねじ、ハウランドの話、メイフラワー誓約がわかる。
Who Were the Pilgrims? - Plimoth Patuxet Museums分離派とピューリタンの違い、オランダでの暮らし、「ピルグリム」という呼び名の由来を説明している。
The Mayflower - Pilgrim Hall Museumプリマスにある博物館による、メイフラワー号の大きさ・航海・船内の暮らしの解説。
The Great Dying - Pilgrim Hall Museum1616〜1619年の疫病でワンパノアグとパタクセット村に何が起きたかを、先住民の側から説明している。
Treaty with Massasoit - Pilgrim Hall Museum1621年の同盟の6つの約束と、サモセット・ティスクァンタムの仲立ちを、当時の記録とともに紹介。
The Mayflower Story - Mayflower 400 UKイギリス側の公式記念団体による解説。スクルービーからの脱出、ライデン、スピードウェル号の失敗まで詳しい。
Mayflower - Wikipedia英語版ウィキペディア。船の大きさ、乗組員、新旧の暦での日付、その後の船の運命までまとまっている。



