Cinco de Mayo

シンコ・デ・マヨの由来と歴史(詳しく)

いつから?なぜ?名前の意味は? シンコ・デ・マヨの本当の話を、確かな資料でたどります。

1シンコ・デ・マヨの由来:1862年5月5日、プエブラの丘の番狂わせ

始まりは、借金でした。1861年、メキシコは長い内戦のあとでお金がなく、大統領ベニート・フアレスは外国への借金の支払いを止めると決めます。怒ったフランス・イギリス・スペインは、港町ベラクルスに軍艦を送りました。

イギリスとスペインは話し合いで引き上げます。でもフランスだけは残りました。皇帝ナポレオン3世は、借金を口実に、メキシコを自分の言うことを聞く国にしようと考えていたのです。

フランス軍を率いるロレンセス将軍は、約6,000人の兵を連れて首都メキシコシティへ向かいます。途中にあるのがプエブラの町。将軍は、すぐに勝てると信じていました。

待ち受けるメキシコ軍は、2,000〜5,000人ほど(資料で数がちがいます)。物資は足りず、兵士の多くは先住民や混血の人々でした。指揮したのはイグナシオ・サラゴサ将軍、33歳です。サラゴサ軍は町を見下ろす2つの丘、ロレト砦とグアダルーペ砦に立てこもりました。

5月5日の正午ごろ、フランス軍が丘をかけ上がります。何度攻めても、上から撃たれて押し返されました。夕方7時ごろ、フランス軍はとうとう陣地へ引き上げます。フランス側の死傷者は約480人。メキシコ側の戦死者は100人に満たなかったとされます。

この戦いには、プエブラ州北部の山地サカポアストラから来た先住民の兵士たちも加わっていました。「サカポアストラ兵」の姿は、今もプエブラのパレードで再現されています。

勝利のあと、サラゴサは大統領に短い報告を送りました。「国の軍は栄光に包まれた(Las armas nacionales se han cubierto de gloria)」。メキシコ人なら誰もが知っている一文です。

シンコ・デ・マヨ(Cinco de Mayo)のイラスト

2シンコ・デ・マヨの歴史:勝ったのに、1年後に負けていた

ここが、あまり知られていない続きです。プエブラの勝利で、戦争が終わったわけではありませんでした。

英雄サラゴサは、戦いからわずか4か月後の1862年9月8日、腸チフスで亡くなります。まだ33歳でした。フアレス大統領はすぐにプエブラの町の名前を「プエブラ・デ・サラゴサ」に変えます。今の正式名「ヘロイカ・プエブラ・デ・サラゴサ」は「英雄的な、サラゴサのプエブラ」という意味です。

怒ったナポレオン3世は、兵を3万人に増やして送りこみました。1863年、フランス軍はプエブラを落とし、首都メキシコシティまで占領します。1864年には、オーストリアの皇族マクシミリアンが「メキシコ皇帝」として即位しました。

それでもメキシコの人々はあきらめませんでした。フアレスは各地で戦いを続けます。1865年に南北戦争を終えたアメリカも、フランスに強く圧力をかけました。1866年からフランス軍は引き上げはじめ、1867年、取り残されたマクシミリアンはケレタロで処刑されます。

つまり5月5日は「戦争に勝った日」ではありません。「強い相手に、一度でも勝てた日」です。だからこそ、勇気と誇りのシンボルになりました。

もう一人、この戦いにいた若い将校がいます。ポルフィリオ・ディアスです。彼はのちに大統領となり、30年あまり国を支配しました。ディアスは自分が戦ったこの記念日を盛大に祝わせます。1910年に革命でディアスが倒れると、プエブラ以外ではお祝いは小さくなっていきました。

🕰️ シンコ・デ・マヨの年表

  1. 1810年9月16日イダルゴ神父が「ドローレスの叫び」。メキシコ独立戦争が始まる(今の独立記念日)。
  2. 1821年メキシコがスペインからの独立を果たす。
  3. 1861年フアレス大統領が外国への借金の支払いを停止。フランス・イギリス・スペインが軍艦を送る。
  4. 1862年5月5日プエブラの戦い。サラゴサ将軍のメキシコ軍がフランス軍を撃退。
  5. 1862年5月下旬勝利の知らせが約3週間かけてカリフォルニアに届き、メキシコ系住民が祝う。
  6. 1862年9月8日サラゴサ将軍が腸チフスで死去。町は「プエブラ・デ・サラゴサ」と改名される。
  7. 1863年約3万人のフランス軍がプエブラとメキシコシティを占領。ロサンゼルスやサンフランシスコで記念行事。
  8. 1864〜1867年マクシミリアンが「メキシコ皇帝」に。1867年に処刑され、フランスの支配が終わる。
  9. 1960〜70年代チカーノ運動の中で、5月5日がメキシコ系アメリカ人の誇りの日になる。
  10. 1989年メキシコビールの輸入会社がシンコ・デ・マヨの広告を展開。全米に広がるきっかけに。
  11. 2005年アメリカ議会が、大統領にこの日の記念声明を求める決議を可決。
  12. 2013年ごろ東京・大阪でシンコ・デ・マヨのフェスティバルが始まる。

3アメリカでシンコ・デ・マヨが大きくなった本当の理由

ではなぜ、アメリカの方が盛り上がるのでしょう。理由は3つの波に分けるとよくわかります。

第1の波は、1862年のカリフォルニアです。当時のカリフォルニアには、もともと住んでいた人やゴールドラッシュで来た人など、スペイン語を話す人々がたくさんいました。プエブラの勝利の知らせは、約3週間かけて届きます。人々は大喜びし、各地で祝いの集まりを開きました。

ちょうどアメリカは南北戦争の真っ最中でした。UCLAの医学部教授で、ラテン系住民の歴史も研究するヘイズ=バウティスタは、当時のスペイン語新聞を読みこみ、こう指摘します。カリフォルニアのラテン系の人々は、フランスとの戦いと南北戦争を「自由と平等をめぐる、ひとつの戦い」と見ていた、と。各地に「愛国協会(フンタ・パトリオティカ)」が129も作られ、毎年パレードやデモで自由と平等への思いを示しました。彼の本の題名は『シンコ・デ・マヨ:アメリカの伝統』(2012年)です。

第2の波は、1960〜70年代です。メキシコ系アメリカ人(チカーノ)の若者たちが、差別に立ち向かう運動を広げました。小さな軍が大国を追い返した5月5日は、「自分たちのルーツを誇る日」にぴったりでした。

第3の波は、1980年代のビール会社です。メキシコのビール「コロナ」は1979年にアメリカへの輸出を始め、売り上げは1984年の160万ケースから、2年後には1,200万ケースを超えました。1989年には、テキサス州サンアントニオの輸入会社が、シンコ・デ・マヨをテーマにした広告を打ちます。これが大当たりしました。

こうして5月5日は「タコスとビールの日」として全国に広がります。2005年にはアメリカ議会が、大統領にこの日を記念する声明を出すよう求める決議をしました。2013年の調査では、この日のビールの売り上げは6億ドル以上。スーパーボウルや聖パトリックの日を上回ったと報じられています。

4「Cinco de Mayo」の意味:スペイン語でただの「5月5日」

シンコ(cinco)は「5」、デ(de)は「〜の」、マヨ(mayo)は「5月」。つなげると「5月の5日」。名前そのものは、ただの日付です。英語の May と同じく、ラテン語の Maius(5月)から来た言葉です。

メキシコでは、日付がそのまま記念日や通りの名前になることがよくあります。首都メキシコシティの中心には「5月5日通り(アベニーダ・シンコ・デ・マヨ)」があり、戦いのあった1862年にこの名前がつきました。独立記念日にちなんだ「9月16日通り」もあります。日本で言えば「5月5日通り」が東京のど真ん中にあるような感覚です。

メキシコの人がこの日を呼ぶときは、「プエブラの戦いの記念日(Aniversario de la Batalla de Puebla)」と言うことが多いです。「シンコ・デ・マヨ」という呼び方がお祭りの名前として定着したのは、むしろアメリカでした。

英語でも、スペイン語に近い「シンコ・デ・マーヨ」「シンコ・デ・マイオウ」のような発音で言います。マヨネーズとは関係ありません。

5シンコ・デ・マヨの過ごし方:プエブラの大行進と、アメリカのフィエスタ

本場プエブラでは、町じゅうが大行進の会場になります。2024年の162周年パレードには、軍人3,249人、36校の生徒12,500人、サカポアストラ兵などの衣装を着た140人が参加しました。軍用機9機が空を飛び、大統領も見物に来ました。2026年の164周年では、サラゴサの霊廟から3.7kmのコースを兵士と市民が行進しています。

丘の上の砦では戦いの再現劇が行われ、大砲の音が響きます。プエブラは、チョコレートや何種類もの唐辛子、スパイスを煮こむソース「モレ・ポブラノ」の本場でもあり、モレのお祭りも開かれます。

メキシコのほかの地域では、もっと静かです。公立学校は休みですが、大人はふつうに仕事。学校で戦いの話を学ぶ日、という感じです。

アメリカでは、街がフィエスタ(お祭り)になります。ロサンゼルスの「フィエスタ・ブロードウェイ」は1990年代に50万人以上を集め、「世界最大のシンコ・デ・マヨ」と呼ばれました。シカゴ、ヒューストン、デンバー、フェニックスなどでも大きな祭りがあります。1998年の調査で、21の州に120以上の公式行事がありました。

通りにはマリアッチ(ギターとトランペットの楽団)の音楽が流れ、すそが大きく広がるドレスのフォルクロリコ(民族舞踊)の踊り手がくるくる回ります。レストランにはタコスとワカモレ。2026年の5月5日は火曜日だったので、多くの店が「タコス・チューズデー」の特売を打ち出しました。

🎁 シンボルと小物

MXメキシコの国旗Mexican flag

緑・白・赤の三色に、サボテンの上でヘビをくわえるワシの紋章。アメリカの祭りでは、この三色の飾りが町じゅうにあふれる。

🎺マリアッチmariachi

トランペット、バイオリン、ギターなどの楽団。おそろいの飾りつき衣装で、にぎやかに演奏する。

💃フォルクロリコ(民族舞踊)ballet folklórico

すそが大きく広がる色あざやかなスカートを両手で持ち、くるくる回って踊る。パレードの花形。

🎏パペル・ピカド(切り紙の旗)papel picado

薄い色紙を細かく切りぬいた飾り。ひもに連ねて、通りや店の天井にずらりとつるす。

🏰ロレト砦Fort Loreto

プエブラの丘の上に今も残る砦。1862年の激戦地で、5月5日の記念行事の舞台になる。

🪖サカポアストラ兵Zacapoaxtla soldiers

戦いに加わったプエブラ州北部の先住民の兵士たち。その姿を再現した人々が毎年パレードを行進する。

🍽️ この日の食べ物

🍫モレ・ポブラノmole poblano

プエブラ名物。チョコレート、何種類もの唐辛子、ナッツ、スパイスなどを煮こんだ黒っぽいソースを、鶏肉にかける。修道院の修道女が考えたという伝説がある。

🌮タコスtacos

トウモロコシの薄焼き(トルティーヤ)で肉や野菜を包む。アメリカの5月5日にいちばん売れる料理のひとつ。

🥑ワカモレguacamole

アボカドをつぶして、玉ねぎ・トマト・ライムをまぜたディップ。アメリカではこの日に向けて大量のアボカドが出荷される。

🍺メキシコのビールMexican beer

1980年代の広告で「シンコ・デ・マヨ=メキシコビール」のイメージが定着。今はこの日の売り上げの多さで知られる。

6日本のシンコ・デ・マヨ:こどもの日と同じ5月5日

日本では、シンコ・デ・マヨの5月5日は「こどもの日」です。同じ日に、地球の反対側ではタコスとマリアッチのお祭りが開かれている。そう考えると、ちょっと楽しくなります。

日本でも2013年ごろから、東京や大阪で「シンコ・デ・マヨ」のフェスティバルが開かれるようになりました。東京では近年、北区の飛鳥山公園が会場です。ゴールデンウィークの3日間、タコスやケサディーヤの屋台が並び、メキシコビールやテキーラのカクテルが売られ、マリアッチの生演奏が響きます。入場は無料です。

日本とメキシコには、意外な深い縁があります。1888年、日本はメキシコと「日墨修好通商条約」を結びました。これは日本がアジア以外の国と結んだ、はじめての対等な条約です。不平等条約に苦しんでいた明治の日本にとって、大きな一歩でした。1897年には、日本からメキシコへの移民も始まっています。

日本人が「独立記念日」とまちがえやすいのは、アメリカのニュースや広告でこの日を知ることが多いからです。英語の授業でこの日を扱うなら、「メキシコの日なのに、なぜアメリカで盛り上がるの?」という問いから入ると、移民・歴史・広告の話まで一気につながります。

7よくある誤解とホント:シンコ・デ・マヨは独立記念日ではない

誤解1:シンコ・デ・マヨはメキシコの独立記念日。
これがいちばん多いまちがいです。2020年の調査(YouGov)では、アメリカの大人の41%がそう答えました。正しいとわかっていた人は40%しかいません。メキシコの独立記念日は9月16日です。1810年のこの日の午前2時半ごろ、ドローレスという町で神父ミゲル・イダルゴが教会の鐘を鳴らし、スペインからの独立を呼びかけました。「ドローレスの叫び」です。今も毎年その前夜、大統領が国立宮殿のバルコニーで、イダルゴが鳴らしたその鐘を鳴らし、「¡Viva México!」と3回叫びます。5月5日の戦いより、52年も前のことです。

誤解2:メキシコでいちばん大きなお祭り。
いいえ。メキシコでいちばん大事な国の祝日は9月16日の独立記念日です。5月5日は国の法定休日でもありません。

誤解3:この戦いでフランスを追い出した。
実際は、1年後にフランス軍が戻ってきて首都を占領しました。追い出せたのは5年後の1867年です。

誤解4:メキシコからの移民が持ちこんだお祭り。
ヘイズ=バウティスタの研究では、アメリカでの祝いは1862年、戦いの直後にカリフォルニアで始まっています。アメリカで生まれ育った行事、と言ってもいいのです。

誤解5:ソンブレロと付けひげで仮装するのが正しい祝い方。
大きな帽子と付けひげの仮装は、メキシコの人を笑いものにするステレオタイプ(決めつけた見方)だと批判する声が多くあります。本当に楽しむなら、本物の音楽や料理、歴史に触れるのがいちばんです。

💡Fun Factsシンコ・デ・マヨの豆知識 10連発

No.1

英雄サラゴサ将軍は、今のアメリカ・テキサス州ゴリアッドの生まれ(1829年)。当時そこはメキシコ領だった。生家は今、テキサス州の史跡になっている。

General Zaragoza was born in 1829 in a town that is now in Texas. At that time, Texas was part of Mexico.

No.2

2020年のYouGovの調査では、アメリカの大人の41%が「シンコ・デ・マヨはメキシコの独立記念日」と答えた。正しく答えた人は40%で、わずかに負けている。

In a 2020 survey, 41 percent of American adults said Cinco de Mayo was Mexico's Independence Day. It is not.

No.3

プエブラの勝利の知らせがカリフォルニアに届くまで、約3週間かかった。カリフォルニアの人々は、5月下旬になってようやく勝利を知った。

The news of the battle took about three weeks to reach California.

No.4

メキシコビール「コロナ」のアメリカでの売り上げは、1984年の160万ケースから1986年には1,200万ケース以上に。7.5倍以上の急成長が、5月5日のビール人気の土台になった。

Corona beer sales in the United States grew from 1.6 million cases in 1984 to over 12 million cases in 1986.

No.5

2013年の調査では、シンコ・デ・マヨに買われたビールは6億ドル以上。スーパーボウルや聖パトリックの日よりも多かったと報じられた。

In 2013, Americans bought more than 600 million dollars of beer for Cinco de Mayo.

No.6

プエブラの戦いにいた若い将校ポルフィリオ・ディアスは、のちに大統領になり30年あまり国を支配した。彼の時代に、5月5日のお祝いはいちばん豪華になった。

A young officer at the battle, Porfirio Díaz, later ruled Mexico for more than 30 years.

No.7

プエブラの正式名は「ヘロイカ・プエブラ・デ・サラゴサ」。戦いのわずか4か月後に亡くなった将軍の名前が、町の名前に入っている。

The city of Puebla now has General Zaragoza's name in its official name.

No.8

メキシコシティの「5月5日通り」は、戦いのあった1862年にこの名前になった。日付がそのまま通りの名前になっている。

Mexico City has a street called Cinco de Mayo. It got this name in 1862.

No.9

ロサンゼルスの「フィエスタ・ブロードウェイ」は1990年代に50万人以上を集め、「世界最大のシンコ・デ・マヨ」と呼ばれた。

In the 1990s, a Cinco de Mayo festival in Los Angeles had more than 500,000 visitors.

No.10

1888年の日墨修好通商条約は、日本がアジア以外の国と結んだはじめての対等な条約。メキシコにとっても、アジアの国との初めての条約だった。

In 1888, Japan and Mexico signed a treaty as equal partners. It was a first for both countries.

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▶️Videos & Linksシンコ・デ・マヨの動画とリンク集

Cinco de Mayo for Kids | What It Is and Why It’s CelebratedHomeschool Pop

Cinco De Mayo: A Celebration of Mexican Heritage | HistoryHISTORY

Cinco de Mayo: A Brief HistoryABC News

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