原田英語とっておきの話

岩倉使節団はなぜ英語を話せた?鉄壁もアプリもない時代の学習法を全部調べた

⚓ HISTORY × ENGLISH LEARNING

岩倉使節団は
なぜ「英語が話せた」のか?

鉄壁もDuolingoもない1871年。
彼らが使っていた”本物の単語帳”と学習法を全部調べた

「岩倉使節団って何で英語話せたんだろう?やっぱ移動時間に鉄壁とかやってたのかな」

このポストが338万表示を超え、リプ欄は「Vintageもやってたらしい」「Duolingoだゾ」の大喜利で埋まりました。
でも、ふざけた質問の裏には本気で知りたい謎があります。
──ペリー来航から18年。彼らはどうやって英語を習得したのか?

1バズの発端──「移動時間に鉄壁」大喜利リプまとめ

発端は、たった一行の素朴な疑問でした。「岩倉使節団って何で英語話せたんだろう?やっぱ移動時間に鉄壁とかやってたのかな」。太平洋を渡る船の中で受験生よろしく単語帳を回す明治の元勲たち、という絵面が強烈すぎて、リプ欄は一瞬で大喜利会場になります。

「さすがに当時鉄壁ないよ Rulesの音読ガチってたらしい」「vintageもやってたらしい」「ネクステはやってなかったらしい」「POLARISも全部やったらしい」「政府からEvergreenが配布されてた」──受験英語の参考書名が総動員されました。極めつけは「岩倉使節団が『でゅを』と名付けた英語を喋る緑のフクロウを飼っていた」「voyageしながらvintageしてた」あたり。

💡

ちなみに『鉄壁』(鉄緑会東大英単語熟語)の刊行は2009年。使節団の出発は1871年なので、138年ほど早すぎました。「ターゲットかシス単かと」というリプもありましたが、こちらも当然ながら存在しません。

笑い話で終わらせるのは簡単ですが、ここからが本題です。参考書も音声教材もYouTubeもない時代に、彼らは実際に何を使い、どう学んでいたのか。調べてみると、リプ欄の大喜利は思いのほか的を射ていました。

2結論:使節団の英語力は「ピラミッド型」だった

最初に結論を言ってしまいます。「岩倉使節団は英語が話せた」という前提そのものが、半分しか正しくありません。

岩倉使節団は1871年(明治4年)11月に横浜を出発し、1873年9月に帰国。アメリカとヨーロッパ12か国を約1年10か月かけて巡りました。使節本体は出発時46名、留学生を含めると総勢107名。この107人の英語力は、見事なまでにバラバラでした。

🎓
最上層:通訳・書記官
何礼之、新島襄、長野桂次郎など。
交渉・通訳・翻訳を実務でこなすレベル
✈️
中間層:留学経験者
伊藤博文など。
スピーチも会話もこなすが完璧ではない
🎌
トップ層:通訳頼み
岩倉具視、大久保利通、木戸孝允。
実質すべて通訳を介していた

特命全権大使の岩倉具視は英語を解しませんでした。渡航時には髷と和服のままで、洋装に改めたのはシカゴに着いてから。アメリカに留学していた息子の具定・具経に「未開の国と侮りを受ける」と説得され、ようやく断髪しています。このとき説得役を息子たちに頼んだのが、当時ワシントンにいた森有礼でした。

つまり使節団の正解は「全員が英語を勉強した」ではなく、「英語ができる人材を確保して連れて行った」。国家プロジェクトとして極めて合理的な判断です。では、その「英語ができる人材」はどこで育ったのか。ここからが本番です。

3彼らの”鉄壁”は実在した──『英和対訳袖珍辞書』

「鉄壁はさすがにない」とリプ欄はツッコんでいましたが、当時の日本にも”最強の一冊”は確かに存在しました。1862年(文久2年)刊行の『英和対訳袖珍辞書』です。

編集主任は和蘭通詞出身の堀達之助。幕府の洋学研究機関・蕃書調所が国家事業として刊行した、日本初の公刊英和辞書でした。見出し語は約3万5000語。オランダ製の鉛活字と印刷機で洋紙に刷られた、当時としては規格外の大事業です。

衝撃のエピソード

1863年、伊藤博文23歳。イギリス密航時の荷物リスト

① 『英和対訳袖珍辞書』1冊(しかも誤りだらけの版)
② 寝巻き
以上。これだけを持って、約6か月の航海の末ロンドンへ渡りました。

📌 現代に置き換えるなら「単語帳1冊とパジャマだけで海外留学に旅立つ」。彼らにとっての鉄壁は、間違いなくこの一冊でした。

さらにこの辞書の作られ方が象徴的です。英蘭辞書(英語とオランダ語の辞書)の蘭語部分を日本語に訳すという方法で編纂されました。つまりオランダ語を踏み台にして英語に橋を架けたわけです。この「乗り換え」こそが、幕末日本の英語力の正体に直結します。

4学習法① 漢学の「素読」が英語に効いた

「Rulesの音読ガチってたらしい」というリプ、実はかなり核心に近いです。当時の外国語学習は、そもそも音読と暗唱が主軸でした。

使節団に参加した人々は、ほぼ全員が藩校や私塾で漢学の「素読」を経験しています。素読とは、意味の解説を受ける前にまず本文を声に出して繰り返し読み、丸ごと身体に入れてしまう学習法です。四書五経を何百回と音読し、暗唱できる状態を作ってから意味を学ぶ。

素読で鍛えられていた3つの力

① 長時間の音読に耐える体力
毎日声を出して読むのが当たり前。現代の学習者が最も苦手とする「音読の継続」が、幼少期から習慣化されていました。
② 意味が分からなくても進める胆力
全訳できなくても前に進む。多読・多聴で必須の姿勢が、素読によって先に完成していました。
③ 外国語の文法を解析する訓練
漢文訓読は、語順の違う外国語を母語の語順に組み替える作業そのもの。英文解釈の下地が最初から入っていたことになります。

漢文を「返り点」で読み解いていた人間にとって、SVOの英語はむしろ理解しやすい構造でもありました。「漢学の素養がある人ほど英語の上達が早かった」と言われるのは、こうした理由があります。

5学習法② 蘭学からの乗り換えと、長崎の通詞ネットワーク

日本には江戸時代を通じて、長崎に「通詞」という外国語の専門職集団が存在していました。オランダ語を扱う阿蘭陀通詞、中国語を扱う唐通事。家業として代々受け継がれ、実務で外国人とやり取りしてきたプロ集団です。

ペリー来航以降、世界の主役がオランダ語から英語に移ると、彼らは一斉に英語へ乗り換えました。ゼロからの出発ではありません。「外国語を身につける方法」をすでに知っている人たちが、学ぶ対象を英語に切り替えただけです。

使節団の頭脳、何礼之(が のりゆき)

その代表格が、使節団に外務省一等書記官として随行した何礼之です。長崎の唐通事の家に生まれ、英語通訳の功績によって1863年に通詞職の最高位に任じられました。長崎で英語稽古所の学頭を務め、自ら開いた私塾の塾生は300名を超えます。のちに開成所(現在の東京大学の源流の一つ)教授、大阪洋学校(現在の京都大学の源流の一つ)の創設者にもなった人物です。

使節団では副使・木戸孝允に付き、憲法調査も担当。モンテスキューの『法の精神』を翻訳し、『万法精理』として刊行しました。これが後の自由民権運動に大きな影響を与えます。彼の語学力と博識には各国の代表者も一目置き、交渉が円滑に進んだと伝えられています。

🌍

「そこらの外国人に英検の二次対策やって貰ってたかららしい」というリプもありましたが、これも実は的外れではありません。幕末から明治初期の日本では、お雇い外国人による直接指導が語学習得の主要ルートの一つでした。使節団派遣そのものを大隈重信に提案したのも、長崎で教えていたオランダ系アメリカ人のフルベッキです。

6学習法③ 密航してでも行く「留学」という最強の課金

結局、最も効いた学習法はこれです。現地に行って住む。しかも当時は海外渡航が国禁。バレれば死罪という条件下で、彼らは密航しました。

留学組 内容
長州ファイブ 1863年 伊藤博文・井上馨・井上勝・遠藤謹助・山尾庸三が密航渡英。UCLの聴講生に
新島襄 1864年 国禁を犯してボストンへ密航。アマースト大学を卒業
薩摩スチューデント 1865年 森有礼ら19名が渡英。同じくUCLの聴講生として学ぶ
使節団の留学生 1871年 津田梅子ら女子留学生5名を含む多数が同行し、各国に残って学ぶ

長州ファイブを受け入れたのは、著名な化学者アレクサンダー・ウィリアムソン教授でした。伊藤たちは教授の邸宅に滞在し、英語と礼儀作法の指導を受けながら、博物館や美術館、海軍施設や工場を見て回ります。「ホームステイ+大学聴講+現地視察」という、現代の語学留学とほぼ同じ形です。

そしてここが重要なのですが、薩摩の留学生が渡英したとき、ウィリアムソン教授は人数が多かったため他の英語教師も紹介しています。長州藩と薩摩藩の若者たちは、薩長同盟が成立する前にロンドンで顔を合わせて交流していたのです。岩倉使節団は、ある意味「ロンドン留学組の同窓会」でもありました。

7伊藤博文31歳「日の丸演説」の実力はどれほどか

1871年12月14日、サンフランシスコのグランドホテル。到着したばかりの使節団を歓迎する晩餐会で、副使・伊藤博文が壇上に立ちました。当時31歳。ここで行われたのが、後に「日の丸演説」と呼ばれる英語スピーチです。

…the noble emblem of the rising sun…

国旗の中央の赤い丸はもはや国を閉ざす封印ではなく、昇る朝日の誇るべき象徴として、文明諸国の間を前へ、上へと進んでいく──演説はそう結ばれました。

── 伊藤博文「日の丸演説」明治4年12月14日

注目すべきは、この演説の受け取られ方です。ワシントンの日本代表部にいたチャールズ・ランマンは、伊藤がはっきりした声で述べたため聴衆はその主旨をよく理解できた、と記録しています。一方で、流れるような英語だったわけではなかったとも伝えられています。それでも演説後は拍手がしばらく鳴りやまなかった。

ここに最大の学びがあります。伊藤の英語は完璧ではありませんでした。ロンドン滞在も実質1年弱です。それでも、伝えたい中身と明瞭な発声があれば、300人の聴衆を動かせる。「発音が完璧になってから話そう」と待ち続ける必要がないことを、150年前に証明しています。

8「スマホのPDF」ネタは核心を突いていた──全権委任状事件

リプ欄に、こんな一言がありました。「スマホあるから何とかなったやろ。でも、さすがに天皇の信任状はスマホのPDFは認められんかったらしい」。

これ、史実として恐ろしいほど的確なボケです。

使節団は最初の訪問国アメリカで大歓迎を受け、不平等条約の改正も意外と簡単にいくのではと楽観していました。ところがワシントンで面会した国務長官ハミルトン・フィッシュから、決定的な指摘を受けます。「あなた方は全権委任状を持っていない」──条約交渉に必要な正式文書がなかったのです。しかも、この外交プロトコルを理解している者が日本側に一人もいませんでした。

その後の展開

3月20日 伊藤博文と大久保利通が、委任状を取りに日本へ一時帰国
7月22日 全権委任状を取得してワシントンに帰着。往復に約4か月
結果 11回に及ぶ会談を重ねたが日米は妥協点を見いだせず、交渉は決裂

📌 以後、使節団はイギリス・フランス・ベルギーなど残る訪問国では具体的な条約交渉を行わず、制度と文物の調査に専念する方針へ切り替えました。

ここから引き出せる教訓は、語学学習者にとってかなり重い。英語力があっても、その場のルールを知らなければ交渉のテーブルにすら着けない。使節団が痛感したのはまさにこれで、だからこそ彼らは残りの1年半を「欧米のルールそのものを学ぶ」ことに注ぎ込みました。

文部理事官・田中不二麿は、アマースト大学に留学中だった新島襄を通訳兼助手として雇い、欧米の学校教育を徹底的に見て回ります。その成果が全15巻の報告書『理事功程』。帰国後の学制整備の土台になりました。条約改正には失敗しましたが、この「調査」こそが近代日本を作ったと評価されるようになったのは、そういう理由です。

9岩倉使節団を英語で説明する7フレーズ

せっかくなので、この話題を英語で語るための必須表現を7つ。外国人に日本史を説明するとき、そのまま使えます。

the Iwakura Mission
岩倉使節団
the Iwakura Embassy とも言います。missionは「使節団・任務」の意味。
unequal treaties
不平等条約
幕末から明治にかけての外交を語るなら必須。treaty revision で「条約改正」。
letter of credence / full powers
信任状/全権委任
今回の事件の核心。They didn’t have full powers to negotiate.(交渉する全権を持っていなかった)
extraterritoriality
治外法権(領事裁判権)
長いですが、日本史を英語で語るなら避けて通れない一語。consular jurisdiction とも。
tariff autonomy
関税自主権
使節団がアメリカに承認を求め、拒まれた要求の一つ。
stow away / smuggle oneself abroad
密航する
長州ファイブや新島襄の説明に。He smuggled himself abroad to study in the U.S.
a fact-finding mission
実情調査の使節団
交渉を諦めた後の使節団の性格を表すのにぴったり。ビジネスでもそのまま使えます。

まとめ──「鉄壁」がなくても人は英語を話せる

参考書もアプリも音声教材もない。
それでも彼らは英語で交渉し、演説し、報告書を書き上げました。
私たちが真似できることは、意外と多い。

辞書を「引く」のではなく「使い倒す」。伊藤博文の荷物は袖珍辞書1冊だけだった
音読と暗唱を毎日やる。素読で鍛えた世代が最強だった理由がここにある
一人で抱えない。使節団は「話せる人」をチームに入れて国家事業を回した
完璧を待たない。伊藤の英語は流暢ではなかったが、拍手は鳴りやまなかった
語学とルールはセット。委任状がなければ、英語が通じても交渉は始まらない