
毛をそっても、濃くはならない
そった毛は先がとがっていないので、太く見える。
この判定の対象「毛はそると、前より太く濃く生えてくる」
もくじ
1920年の夏、アメリカで大学を卒業したばかりの女性が、ある書類にサインしようとしていました。高校の先生になる契約です。給料は1600ドルでした。
そこへ、一通の手紙が届きます。差出人は、ワシントン大学(セントルイス)の解剖学者でした。毛の研究の助手として来てほしい、という内容です。給料は1000ドルでした。
両親は反対しました。それでも彼女は、安いほうの仕事を選びます。名前はミルドレッド・トロッター(Mildred Trotter)。彼女はこの研究の中で、1928年に「毛の成長とひげそり」という論文を出します。この論文のテーマは、「毛はそると濃くなる」という有名な思い込みと、ちょうど同じです。
トロッターには、もう一つ、あまり知られていない話があります。彼女はやがて毛の研究をはなれ、骨の長さから人の身長を割り出す式を作りました。その式は、今も法医学(事件や事故で亡くなった人を調べる医学)で使われています。
この記事では、まずトロッターが毛の研究を始めたいきさつと、当時のアメリカの事情を紹介します。次に、毛をそると濃くなるのかを、研究と毛のつくりから確かめます。最後に、トロッターが骨の研究者になった話をします。
01トロッターの毛の研究は、多毛症の娘をもつ父親の寄付から始まった
トロッターが手伝うことになった毛の研究は、ちょっと変わったきっかけで始まりました。1972年の聞き取りで、彼女自身がこう語っています。
大学の医学部の医師に、多毛症の治療を受けた女性の患者がいました。多毛症とは、体の毛がふつうより多く、濃く生える状態です。その女性の娘たちにも、同じ症状が出はじめていました。
そこで女性の夫が、5000ドルを大学に寄付しました。毛の成長を研究する人がいるとよい、と考えたのです。研究が自分の家族の役には立たないと分かっていても、寄付したといいます。
トロッターの肩書きは「多毛症フェロー」になりました。フェローとは、研究のために雇われる若手のことです。彼女はこの研究で、1921年に修士、1924年に博士になります。
021920年代のアメリカでは、女性が足の毛を処理する習慣が広まりはじめた
そのころ、アメリカでは女性の体の毛について、大きな変化が起きていました。
ヘンリー・フォード博物館によると、1915年に、わきの毛を取りのぞくことをすすめる広告がはじめて女性向けの雑誌にのりました。足の毛の処理が少しずつ広まったのは、1920年代から30年代です。
そのころの女性向けの美容ガイドには、よくこんな注意が書かれていました。足の毛をなくすと、もっと濃く、太く生えてくる、というものです。足の毛を処理するという新しい習慣と一緒に、「濃くなるのでは」という不安も広まったわけです。
トロッターの論文の題名を見ると、彼女が何を調べていたかが分かります。
- 1923年「毛は、育毛に効くと思われていたある種の刺激を与えても、変わらない」。
- 1924年「体の部位ごとの毛の一生」。
- 1928年「毛の成長とひげそり」。
031928年の実験で、毛をそっても毛の太さや伸び方は変わらないと示された
2007年、イギリスの医学誌『BMJ』に、ある記事がのりました。アメリカの小児科の研究者2人が、「医学の思い込み」を7つ選んで調べたものです。医者でさえだまされる、という副題つきです。その一つが「毛をそると、速く、濃く、太く生えてくる」でした。
記事は、この思い込みを強い証拠で否定しています。早くも1928年に、そっても毛の成長に影響しないことを示した実験があった、と書いているのです。この実験が誰のものかは、今回は確かめきれませんでした。記事の参考文献リストと、論文の本文が読めなかったからです。ただ、年と題名から、トロッターの「毛の成長とひげそり」を指すと考えられます。その後の研究も、そっても毛の太さや伸びる速さは変わらないことを確かめました。
理由は、毛のつくりにあります。毛のうち、皮ふの外に出ている部分には、生きた細胞がありません。毛を作っているのは、皮ふの下にある「毛包」という小さな袋です。かみそりがとどくのは、皮ふの外の、生きた細胞のない部分だけです。そのため、毛を作る毛包には、何も起きないのです。

04そったあとの毛が濃く見えるのは、毛の先の形と色のせい
では、なぜそったあとの毛は、太く濃く見えるのでしょうか。『BMJ』の記事は、2つの理由をあげています。
1つ目は、先の形です。一度もそっていない毛は、先に向かって細くとがっています。かみそりで切ると、そのとがった部分がなくなり、平らな切り口になります。太い根もとに近い部分が、そのまま皮ふから顔を出すのです。さわるとチクチクし、見た目も太く感じます。
2つ目は、色です。長く生えていた毛は、日光などで少しずつ色がぬけています。新しく出てきた毛は、まだ色がぬけていません。だから、前の毛より濃く見えるのです。
記事はさらに、「そると濃くなる」という思い込みが消えない理由も書いています。1つは、メディアがくり返し伝えることです。もう1つは、そったあとすぐにチクチクした毛が生えてくるのを、自分の体で見るからかもしれない、としています。
05トロッターは毛の研究をはなれ、骨から身長を割り出す式を作った
トロッターの話には、続きがあります。1925年、彼女はイギリスのオックスフォード大学に留学しました。毛の違いを研究するための奨学金でした。
ところが、教授に任されたのは、エジプトで昔に集められた、古い背骨の研究でした。骨はぼろぼろで、洗ってうすいのりで固めないと、くずれてしまうほどだったといいます。この研究が、彼女の骨についての最初の論文になりました。そして彼女は、毛より骨の研究のほうが好きだと気づきます。
1946年、トロッターはワシントン大学の医学部で、女性で初めての教授になりました。1948〜49年には、ハワイにあるアメリカ陸軍の施設で働きます。太平洋で戦死した兵士の骨から、誰なのかを割り出す仕事でした。
その仕事のかたわら、トロッターは、名前の分かっている人の骨を使って研究もしました。そして、手足の長い骨の長さから、身長を推定する式を作りました。この式は、今も法医学で使われています。
深掘り講義
ここから先は、もう一段深く。しくみ・史料・論争まで踏み込みます。
毛を作る毛包は、「伸びる・縮む・休む」をくり返している
毛は、ずっと伸び続けるわけではありません。毛包は「伸びる」「縮む」「休む」をくり返しています。
- 成長期:毛包の根もとで細胞がどんどん増え、毛が伸びる時期。
- 退行期:毛の成長が止まり、毛包が縮んでいく時期。
- 休止期:毛包が休んでいる時期。このあと古い毛がぬけ、新しい成長期が始まる。
2022年に、それまでの研究をまとめた論文(総説)によると、大人の頭の毛では、成長期が約3年、退行期が約3週間、休止期が約3か月です。そして、毛がどこまで長くなるかは、成長期の長さで決まります。かみそりは、毛包のこのくり返しには、まったくさわりません。そるのは、皮ふの外に出た、できあがった毛の部分だけだからです。
そった毛が太く濃く見えても、毛そのものは変わっていない
一度もそっていない毛は、先が細くとがっています。かみそりは、その細い先を切り落とします。すると、皮ふの上に出ているのは、毛の中でも太めの部分だけになります。同じ毛なのに、断面だけを見ると太く感じるのです。毛の太さは、先と根もとで同じではありません。どこで切られたかによって、目に入る太さが変わるわけです。指でさわったときのチクチク感も、とがった先ではなく、平らな切り口が皮ふに当たるためだと考えられます。
色も同じです。長く外に出ていた毛は、日光などで色がうすくなります。そった直後の短い毛は、色がぬける前の毛です。毛そのものは、何も変わっていません。それなのに、太く見えることと濃く見えることが重なって、「太くなった」「濃くなった」と感じてしまいます。人は、見え方が違うだけなのに、もの自体が変わったと思い込みやすいのです。
「そっても変わらない」と言い切るには、いくつもの研究が必要
『BMJ』の記事を書いた2人は、7つの思い込みを調べるとき、こんな注意を書いています。「何かがない」ことを証明するのは、むずかしい。だから、思い込みを支える証拠が見つからない場合は、「見つからなかった」と記録した、というのです。
「そると濃くなる」も同じです。そったあと、毛が変わらないことを一度示しても、「別の人なら」「別の場所なら」という疑問は残ります。だから研究者は、比べる相手を決め、同じ測り方で何度も確かめます。1928年の実験のあとにも、別の研究が「そっても変わらない」という同じ結論を出しました。一つの研究だけではなく、いくつもの研究が同じ結論を出したとき、ようやく「ウソ」と言い切れるのです。
研究を支えた父親の寄付と、女性だから給料が低かったトロッター
トロッターの研究費は、多毛症に悩む家族の父親の寄付でした。その父親は、自分の娘たちの役には立たないと分かっていたといいます。研究の成果は、すぐに目の前の患者を救うとは限りません。それでも、毛の一生や、毛をそるとどうなるかといった基本的な疑問は、この寄付のおかげで調べられていきました。
トロッター自身も、聞き取りの中で、女性であるために給料が低かったと語っています。1948〜49年にハワイで働いたときは、大学を休んでいたので、大学からの給料は出ませんでした。留守のあいだの代わりとして、彼女は女性を推薦しました。でも受け入れられず、男性が6か月だけ来て、彼女の給料を全額受け取ったといいます。トロッターは、「毛はそると濃くなる」という思い込みを調べました。同時に、「女性の給料は男性より安くてよい」という当時の考え方とも、向き合っていたのです。
06まとめ
「毛はそると濃くなる」はウソです。かみそりが切るのは、皮ふの外の、生きた細胞のない部分だけです。濃く太く見えるのは、とがった先がなくなり、色もまだぬけていないからです。
1928年に「毛の成長とひげそり」を書いたミルドレッド・トロッターは、のちに骨の研究者になりました。彼女が作った身長の式は、今も法医学で使われています。そったあとのチクチクを感じたら、指先で毛の「切り口」をなでてみてください。太くなったのではなく、平らになっただけです。
人に話すなら、こう言おう
毛をそると濃くなるってウソなんだって。切り口が平らだから太く見えるだけらしい。1928年に毛とひげそりの論文を書いた女の人は、そのあと骨の長さから身長を出す式を作ったらしいよ。
英語で読む
The Razor Myth and the Bone Scientist
英文をタップすると、その文の訳が出ます。
In the summer of 1920, a young woman named Mildred Trotter got a letter.1920年の夏、ミルドレッド・トロッターという若い女性に、一通の手紙が届きました。 A university wanted her to help study hair.ある大学が、毛の研究を手伝ってほしいと言ってきたのです。 The job paid only 1,000 dollars, but she said yes.給料は1000ドルしかありませんでしたが、彼女は引き受けました。
At that time, more American women were starting to shave their legs.そのころ、足の毛をそり始めるアメリカの女性が増えていました。 Beauty guides warned that the hair would grow back darker and thicker.美容のガイドは、毛がもっと濃く太く生えてくると注意していました。 In 1928, Trotter wrote a paper called "Hair growth and shaving."1928年、トロッターは「毛の成長とひげそり」という論文を書きました。 Later doctors said a 1928 study showed that shaving does not change hair growth.のちの医師たちは、1928年の研究が、そっても毛の育ち方は変わらないと示したと書いています。 This was probably Trotter's paper.これは、おそらくトロッターの論文です。
Why does shaved hair look thicker?では、なぜそった毛は太く見えるのでしょうか。 A hair that has never been cut has a thin, pointed tip.一度も切っていない毛は、先が細くとがっています。 A razor cuts off this tip, so the end becomes flat and wide.かみそりはこの先を切り落とすので、毛の端は平らで広くなります。 Also, new hair has not been made lighter by the sun yet, so it looks darker.また、新しい毛はまだ日光で色がうすくなっていないので、濃く見えます。 The part of the hair above the skin has no living cells.毛の、皮ふより上の部分には、生きた細胞がありません。 A razor cannot reach the root under the skin.かみそりは、皮ふの下にある根もとにはとどきません。
In England, she studied old bones from Egypt and found that she liked bones more than hair.イギリスで、彼女はエジプトの古い骨を研究し、毛より骨のほうが好きだと気づきました。 In 1946, she became the first woman professor at her medical school.1946年、彼女は自分の医学部で、女性として初めての教授になりました。 After World War II, she worked in Hawaii and helped to identify soldiers from their bones.第二次世界大戦のあと、彼女はハワイで働き、骨から兵士の身元を割り出す手伝いをしました。
She also made a way to guess a person's height from long bones.彼女は、長い骨から人の身長を推定する方法も作りました。 Experts still use it today.専門家たちは、今でもそれを使っています。 Next time shaved hair feels rough, remember that it is flat, not thicker.今度、そった毛がチクチクしたら、太くなったのではなく平らになっただけだと思い出してください。
4択問題 Reading Quiz
-
Q1What is this story mainly about?
この話は主に何についてのものですか。
正解:B A scientist who studied hair and shaving and later studied bones
第2〜3段落で毛の思い込みの話、第4〜5段落でトロッターが骨の研究に進んだ話をしているので正解はB。Cのエジプトは、第4段落1文目で「古い骨」として出てくるだけ。
-
Q2When did Trotter write "Hair growth and shaving"?
トロッターが「毛の成長とひげそり」を書いたのはいつですか。
正解:B In 1928
第2段落3文目に "In 1928, Trotter wrote a paper called 'Hair growth and shaving.'" とあるので正解はB。Aの1920年は手紙が届いた年、Cの1946年は教授になった年。
-
Q3Why does shaved hair look darker?
そった毛が濃く見えるのはなぜですか。
正解:C The new hair has not been made lighter by the sun.
第3段落4文目に、新しい毛はまだ日光で色がうすくなっていないので濃く見える、とあるので正解はC。Aは第3段落6文目「かみそりは根もとにとどかない」と合わない。
-
Q4In paragraph 4, the word "identify" is closest in meaning to ...
第4段落の "identify" という語に最も意味が近いものはどれですか。
正解:A find out who someone is
第4段落3文目の "helped to identify soldiers from their bones" は、骨から兵士がだれなのかを割り出すことなので正解はA。数を数える(D)のではなく、身元を調べる意味。
-
Q5Which is true about Mildred Trotter?
ミルドレッド・トロッターについて正しいものはどれですか。
正解:C She made a way to guess height from bones.
第5段落1文目に、長い骨から身長を推定する方法を作ったとあるので正解はC。Aは第1段落3文目、Bは第4段落1文目と反対の内容。Dは本文にない。
重要語 Key Words(タップで裏返る)
-
shave動詞(毛を)そる
My father shaves every morning.
父は毎朝ひげをそる。
💡 過去形は shaved。shaver は「電気かみそり」。
-
razor名詞かみそり
Be careful. This razor is very sharp.
気をつけて。このかみそりはとても鋭い。
💡 発音は「レイザー」。
-
thick形容詞太い、厚い、濃い
She has thick black hair.
彼女の髪は黒くて太い。
💡 反対語は thin(細い、うすい)。
-
myth名詞作り話、俗説、神話
Many people still believe this old myth.
今でも多くの人が、この古い俗説を信じている。
💡 「ギリシャ神話」は Greek myths。
-
tip名詞先、先端
The tip of the pencil broke.
えんぴつの先が折れた。
💡 「チップ(心づけ)」「助言」の意味もある。
-
skin名詞皮ふ、はだ
Use sunscreen to protect your skin.
日焼け止めで、はだを守ろう。
💡 skin care(スキンケア)は日本語にもなっている。
-
identify動詞(だれ・何かを)突きとめる、確認する
The police could not identify the man.
警察はその男がだれか突きとめられなかった。
💡 名詞は identity(身元)。ID カードの ID はこれ。
-
height名詞身長、高さ
What is your height?
あなたの身長はどのくらいですか。
💡 形容詞 high の名詞形。発音は「ハイト」。
SOURCES出典・ウラ取り
この記事の事実は、次の資料を実際に開いて確認しています(確認した事実 25件)。
- Trotter, M. (1928) Hair growth and shaving, The Anatomical Recorddoi.org
- Vreeman, R. C. & Carroll, A. E. (2007) Medical myths, BMJdoi.org
- Missouri Women in the Health Sciences: Mildred Trotter(ワシントン大学 Becker Medical Library)beckerexhibits.wustl.edu
- Mildred Trotter Oral History Interview, 1972(ワシントン大学 Becker Medical Library)beckerexhibits.wustl.edu
- The Hair-Raising History of Women's Body Hair(ヘンリー・フォード博物館)thehenryford.org
- Lin, X., Zhu, L. & He, J. (2022) Morphogenesis, growth cycle and molecular regulation of hair follicles, Frontiers in Cell and Developmental Biologydoi.org
公式ページで見てみよう
- Mildred Trotter(Becker Medical Library「Medical Journeys」)beckerexhibits.wustl.edu
文章はすべて資料をもとに独自の言葉で書いています。画像はオリジナルのイメージです。誤りにお気づきの方は訂正窓口へ。
NEXT TRIVIAこの雑学にうなった人は、これにもうなる
No.011ウソFALSE「寝ている間にクモを年8匹食べる」はウソで、その種明かし話もウソだった
クモ8匹説は、種明かしの話までウソだった。
No.012ウソFALSE「金魚の記憶は3秒」はウソで、金魚はエサの時刻も覚えられる
金魚は、エサが出る時刻を覚えられる。
No.013ウソFALSE「万里の長城は宇宙から見える」という話は、宇宙に行く200年前からあった
長城が月から見える説は、1754年にはもうあった。
No.191ホントTRUE曇りの日でも、地上に届く紫外線は快晴の日の約6割ある
曇りの日の紫外線は、快晴の日の約6割ある。
No.227グレーGRAYラッコは脇の下に石をしまうが、「何年も同じ石を使う」は確かめられていない
ラッコが同じ石を使い回すデータは、2019年にはなかった。
No.145ウソFALSEゴッホが切ったのは耳たぶではなく、耳のほぼ全部だった
決め手は、医師がかいた1枚のスケッチ。