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日刊原田英語 Harada Eigo Daily
COLUMN 第2回 基礎 読了 4分

英語教育の問題点|「英語ができない英語の先生」を読んで

はらだコラム 第2回

河野太郎氏が「数学ができない数学の先生はいないんだけど、英語ができない英語の先生って結構、まだいる」とテレビで話したと報じられました。いま高校で英語を教えている立場として、この指摘には賛成です。そのうえで、試験では測れていないものについて書いておきます。

監修:原田高志(原田英語.com)

今朝、この記事が目に入って、しばらく手が止まりました。

河野太郎氏、日本の英語教育の問題点指摘「英語の先生が英語ができるかどうか問題というのがあって」(スポーツ報知)

昨夜の日本テレビ系「しゃべくり007」に出演した河野太郎氏の発言です。曰く。

「数学ができない数学の先生はいないんだけど、英語ができない英語の先生って結構、まだいるんです」

いま高校で英語を教えている人間として、これを笑って読み流すことは、私にはできません。

この比べ方は、残酷ですがうまい

まず、この一文のうまさについて書かせてください。

数学の先生は、教える中身と自分の力が一致しています。二次関数を教える人は、二次関数が解けます。当たり前です。国語も、理科も、体育でさえ、だいたいそうです。

ところが英語だけは、長いあいだ「教える中身」と「使える技能」が別物として扱われてきました。文法の説明と、和訳の添削と、テストの作成。これだけなら、自分が英語を話せなくても、一年間の授業は成立してしまいます。

つまり「英語ができない英語の先生」は、個人がなまけた結果というより、そういう授業でよしとしてきた時代の設計から出てきたものです。

ただ、それを理由に擁護する気は、私にはありません。理由が制度にあることと、いまのままでいいことは、まったく別の話だからです。

試験で測ること自体は、正しいと思います

河野氏は、こうも話しています。「英語の先生にちゃんと英語の試験を受けさせて、どれくらいの英語力なの?っていうのを見よう」「毎年公表してダメな所(都道府県)はたたく」。

記事のなかでは、埼玉や福井の名前が挙がっています。教育委員会が動いた地域は、たしかにあります。そして動いたのは、数字が都道府県ごとに並んで見えるようになったからです。

現場からは「数値目標のための受験になっている」という声も出ます。気持ちは分かります。私もいま、その現場にいます。でも、それは測ることに反対する理由にはなりません。

測られて困る、というのは、たいてい測られたくない側の事情です。生徒には毎年、何十回と点数をつけている。つける側だけが測られない、という理屈は、さすがに通りません。

それでも、点数で見えていないものがあります

そのうえで、一つだけ書いておきたいことがあります。

英語のスコアが高い先生が、いい英語の先生とはかぎりません。これは擁護ではなく、二十年見てきた実感です。立派な資格を持っていても、授業のなかで一度も英語を面白がらない人はいます。逆に、発音は決してきれいでなくても、その教室の生徒がなぜか英語を好きになっていく先生もいます。

何が違うのか。私の見るところ、たった一つです。

その先生が、いまも英語を「使っているか」。読んでいるか、聞いているか、知らない語に出会って「へえ」と言っているか。生徒は、そこを驚くほど正確に嗅ぎ分けます。教科書の解説の上手さより、脱線の一言のほうが、教室の空気を決めてしまうのです。

ですから私は、試験に賛成しながら、こう願っています。測る側が「これで測れているのは一部だ」と知っていてくれること。測れるものだけが大事になった瞬間、測れないものが現場から先に消えます。

英語を使わなくても、英語の先生は務まってしまう

そして、いちばんの問題はここだと思っています。

英語教師の一日を、そのまま並べてみます。授業が終われば、書類、部活動、生活指導、保護者対応、会議。気がつくと、その日いちども英語を読まないまま帰る日が、ふつうにあります。これは他人の話ではありません。自分の話です。

教員の英語力の話は、「もともと無い」問題であると同時に、「持っていた力が落ちていく」問題でもあります。大学までさんざん英語をやってきた人が、教壇に立ってから触れなくなる。試験は、その落ちたぶんをきれいに可視化します。

では、落ちないようにするのは何か。たたくことでも、目標値でもなく、その人が英語に触れられる時間が一日のどこかにあるか。だと思います。十分でいい。五分でもいい。制度がそこまで面倒を見てくれないなら、残念ですが、自分でやるしかありません。

生徒には「英語は持っておいたほうがいい」と言う立場の人間が、自分の英語を静かに手放していく。それがいちばん、生徒に伝わってしまいます。

今日の英語のひとかけら

Practice what you preach — and keep practicing.

言っていることを、自分でやる。そして、やり続ける。

practice what you preach は「説教していることを、自分でも実践する」。preach は「説教する」です。面白いのは practice のほうで、この語には「実行する」と「練習する」の二つの顔があります。教える側にとって、この二つは結局おなじことです。やっている人だけが、やり続けていられる。

河野氏の指摘に、私は基本的に賛成です。耳の痛い人はたくさんいるでしょうし、私自身もその一人です。

ただ、たたいて上がるのは県の平均値です。そして、生徒が見ているのは平均値ではなく、目の前にいる一人の先生です。平均値は制度が上げてくれますが、目の前の一人を上げるものは、その人が今日、英語に少しでも触れたかどうかしかありません。

このサイトを毎日更新している理由の半分は、たぶん先生のためです。今日の8本も、生徒だけに向けて書いているわけではありません。職員室の机で、二分だけ読んでもらえたら十分です。

一語だけ、持って帰ってください。明日の授業の脱線に、そのまま使えます。

原田高志

よくある質問

子どもの英語の先生の「英語力」を、親としてどう見ればいいですか?

資格や発音で見ないほうがいいと思います。おすすめは、子どもに「英語の先生、英語が好きそう?」と聞いてみることです。子どもの観察は、大人が思うより正確です。好きそうだと答えたなら、その教室はたぶん大丈夫。資格の有無より、先生が知らない語に出会ったときに「へえ」と言えるかどうかのほうが、生徒の一年を決めます。

大人が学び直すとき、教える人の英語力はどこまで気にするべきですか?

発音がネイティブらしいかどうかより、間違いの直し方を見てください。直すときにこそ人柄が出ます。恥ずかしくならない直し方をする人を選ぶのが、いちばん長続きします。英語力は入り口の条件にすぎません。続けさせる力のほうが、結果としてはるかに効きます。