「何を見ても私の知っている文字というものはない」──。
10年以上かけて極めたオランダ語が、一瞬で「無用の長物」になった瞬間。
──しかし、ここからの「学び直し」が凄まじかった。
1「横浜ショック」──蘭学の天才が味わった絶望
1859年(安政6年)。24歳の福沢諭吉は、緒方洪庵の適塾で塾頭を務めるほどの蘭学エリートでした。大坂から江戸に出て、中津藩邸で蘭学塾を主宰し、オランダ語の読み書きにかけては当代一流の腕前。
しかし、その自信は横浜で粉々に打ち砕かれます。
福翁自伝より
──『福翁自伝』より意訳
開国したばかりの横浜には、世界中から商人が集まっていました。しかし彼らの共通言語は英語。当時、世界の覇権を握っていたのは大英帝国であり、オランダはすでに過去の大国。諭吉が何年もかけて習得したオランダ語は、国際社会では「使えない言語」になっていたのです。
意気揚々と横浜へ。
「自分のオランダ語が
外国人に通じるか試そう」
英語だか仏語だか一向に分からない。
10年の蘭学修業が一瞬で無力化
現代に置き換えるなら、こんな感覚でしょうか。「10年間必死にフランス語を勉強してパリに行ったら、みんな中国語で会話していた」──想像するだけでゾッとしますよね。
しかし諭吉のすごさは、ここで絶望に立ち止まらなかったこと。横浜をとぼとぼ歩いているうちにドイツ人商人キニッフルの店を見つけ、彼がオランダ語を理解できることを発見。蘭文の筆談でなんとかコミュニケーションを取り、門限ギリギリの24時間歩き通しで江戸に帰ってきました。
そして帰宅したその日から、英語の独学を始めるのです。
諭吉の「切り替えの速さ」は同時代の蘭学者と比べても突出していました。大村益次郎(村田蔵六)ですら「英語は一切読まぬ」と断言し、多くの蘭学者が転向を拒否。諭吉の柔軟さは「矛盾を力に変える」思考法にあったと指摘されています。
2辞書なし・教師なし・教科書なし──諭吉の独学戦略
ここからが凄まじい。1859年の日本には、英和辞典も、英語教科書も、英語を教えられる教師もほぼ存在しなかったのです。
現代の私たちには想像もつかない「ないない尽くし」の中、諭吉はどうやって英語を学んだのか?
ステップ①:まず「英語を知っている人」を探し回る
諭吉はまず、幕府の通訳であった森山栄之助のもとに毎朝通い始めます。鉄砲洲(現在の中央区湊あたり)から小石川まで、片道かなりの距離。しかし2ヶ月通っても、先生が忙しすぎてほとんど学べず断念。
それでも諦めない。英語を知っている人を片っ端から訪ねます。子どもだろうが漂流民だろうが、英語の発音を知っている人なら誰にでも教えを請いました。
ステップ②:「英蘭辞書」を入手し、蘭学を橋渡しにする
次に諭吉は「ホルトロップ」という英蘭対訳・発音付きの辞書をなんとか入手します。蕃書調所(幕府の洋学研究機関)には英蘭辞書がありましたが、持ち出し禁止だったため1日で退所しています。
そして編み出した学習法がこれです。
現代の第二言語習得研究で言えば、これは「既知の言語を足場にした学習(scaffolding)」そのもの。L2(オランダ語)を橋渡しにしてL3(英語)を習得する、きわめて合理的なアプローチです。
ステップ③:「大発見」──英語とオランダ語は似ている!
やがて諭吉は決定的な発見をします。
英文を一語一語辞書を引いて訳していくと、ちゃんとオランダ語の文になることを発見。「水泳と木登りほど違うと思っていたが大間違いで、オランダ語を読む力は自然と英語を読む力にも役に立つのだった」──『福翁自伝』
英語もオランダ語も同じゲルマン語派。語彙や文法構造に共通点が多いことに気づいた諭吉は、学習速度を一気に加速させます。これは現代の言語学で言う「言語間の正の転移(positive transfer)」を、150年以上前に体感的に発見していたということです。
3咸臨丸でアメリカへ──「実践の場」に飛び込む行動力
1860年(万延元年)、幕府は日米修好通商条約の批准交換のため、使節団をアメリカに派遣することになりました。諭吉はここでも驚異的な行動力を見せます。
使節団に自ら志願したのです。
当時の日本の人口は約3,000万人。咸臨丸に乗れたのはわずか97名。直接のコネクションもない諭吉は、蘭学医の桂川甫周に頼み込んで軍艦奉行・木村摂津守への紹介状を書いてもらい、従者として乗船を実現します。
37日間の太平洋横断。嵐に次ぐ嵐で、30日以上が荒天だったと記録されています。艦長の勝海舟ですら船酔いで艦長室から出てこられなかったのに、諭吉は暴風雨の中もきびきびと働き続け、周囲から感心されたと乗組員の日記に残っています。
アメリカでの衝撃エピソード
サンフランシスコに到着した諭吉が驚いたこと──
そして諭吉は、アメリカでウェブスター英語辞書と、もう一つ重要なものを手に入れます。それが『華英通語』──英語と広東語の対訳単語集でした。この出会いが、彼の英語力を次のレベルに引き上げることになります。
4「ヴ」を発明した男──発音への異常なこだわり
帰国後、諭吉はサンフランシスコで購入した『華英通語』に英語の発音と日本語訳をカタカナで書き加え、『増訂華英通語』として出版します。これが諭吉が初めて世に出した出版物です。
ここで諭吉は、ある「大発明」をしています。
さらに驚くべきは、その発音表記の精密さです。
それまでの日本の英語書は、オランダ語訛りや横浜あたりの「ピジン・イングリッシュ」に近い発音表記が多かったと言われています。諭吉の『増訂華英通語』は、日本の英語学発達史上で「正確な発音表記」の転換点として位置づけられています。
現代の英語学習者へのヒント:
諭吉が発音に執着したのは「通じる英語」への強い意志の表れ。YouTubeもAIもない時代に、子どもだろうが漂流民だろうが、英語を知っている人を探し回って発音を教わった姿勢は、現代の「シャドーイング」や「発音矯正アプリ」の先駆けとも言えます。
5蘭学は「捨てた」のか?──既存スキルの転用術
「福沢諭吉は蘭学を捨てて英語に転向した」──これは有名なエピソードですが、近年の研究ではこの通説は正確ではないとされています。
福沢諭吉研究者の大久保健晴氏は、この逸話を「横浜神話」と呼び、実態はもっとニュアンスに富んだものだったと指摘しています。
つまり諭吉は蘭学を「捨てた」のではなく、蘭学の蓄積を基礎にしながら、学ぶ言語の軸足を英語へと移したのです。
これは現代の英語学習にとって極めて重要な示唆を含んでいます。
「既存のスキルは無駄にならない」──これが諭吉の学習法の核心です。日本語の知識、他の外国語の知識、専門分野の知識。すべてが英語学習の「足場」になる。ゼロから始める必要はないのです。
6翻訳という「最強のアウトプット」学習法
諭吉の英語力を飛躍的に伸ばした要因がもう一つあります。それは「翻訳の仕事」です。
帰国後、諭吉は「幕府外国方・御書翰掛・翻訳方」に採用され、外国からの公文書を翻訳する仕事に就きます。当時の外交文書にはオランダ語訳が添えられる慣例があったため、英語とオランダ語を常に対照しながら翻訳するという、まさに理想的な学習環境を手に入れたのです。
諭吉の翻訳アウトプット一覧
注目すべきは、諭吉が単なる「英語から日本語への翻訳者」ではなかったこと。彼は翻訳を通じて、日本語に存在しなかった概念そのものを創造したのです。
現代の第二言語習得研究でも、「翻訳」は高度なアウトプット活動として有効性が再評価されています。読む(インプット)→理解する(プロセシング)→別の言語で書く(アウトプット)という一連の流れが、深い言語処理を促進するからです。
7『学問のすゝめ』に隠された英語学習の哲学
『学問のすゝめ』は単なる「勉強しましょう」という本ではありません。当時の人口3,000万人に対して300万部以上売れた──国民の10人に1人が手に取ったという驚異的なベストセラーです。
その中で諭吉が説いた「学問」の定義は、現代の英語学習者にこそ刺さります。
この有名な一節は、実はアメリカ独立宣言の “all men are created equal” からの影響だとされています。諭吉が英語を通じてアメリカの思想に触れ、それを日本語で「翻案」したもの。つまり『学問のすゝめ』そのものが、英語学習の成果物とも言えるのです。
諭吉の「実学」思想と英語学習
諭吉は『学問のすゝめ』で、机上の空論ではなく「実学」──実際の生活に役立つ学問こそ重要だと説きました。
「文字の問屋」のように本を読むだけでは「飯を食う字引」に過ぎない。世帯も学問なり、帳合い(簿記)も学問なり、時勢を察するもまた学問なり──何も和漢洋の書を読むことだけが学問ではない。
──『学問のすゝめ』より意訳
これはまさに、「英語の文法書を読むだけ」「TOEICの点数を上げるだけ」では不十分だという現代への警鐘でもあります。諭吉にとって英語は「学問のための道具」であり、その先にある「世界の知を吸収し、日本を変える」という目的こそが本質だったのです。
8諭吉メソッドから学ぶ「現代人の英語学習」5つの教訓
160年以上前の諭吉の学習法を、現代の英語学習に置き換えてみましょう。驚くほど「今すぐ使える」教訓が詰まっています。
諭吉は蘭学を捨てたのではなく「足場」にした。あなたの日本語力、専門知識、他の言語経験はすべて英語学習の資産です。
実践:自分の専門分野の英語記事から読み始める。背景知識があるので理解しやすく、専門用語も自然に覚えられます。
諭吉は英語がほとんどできない段階で咸臨丸に志願しました。「まだ準備ができていない」と思っても、環境に飛び込むことで学習は加速します。
実践:英語が完璧でなくても、オンライン英会話やSNSでの英語発信を始める。「使う場」を先に作ることが重要。
諭吉は「ヴ」を発明するほど発音にこだわりました。子どもでも漂流民でも、英語を知っている人を探し回って音を学んだ。
実践:シャドーイング、発音矯正アプリ、YouTubeのネイティブ発音動画。諭吉の時代と違い、ツールは無限にあります。使わないのは「もったいない」の極み。
諭吉は翻訳の仕事を通じて英語力を飛躍的に伸ばしました。読んで→理解して→別の言語で書く。この三段階が深い学習を促進します。
実践:好きな英語記事を日本語に訳す。逆に、日本語の記事を英語で要約してみる。SNSで英語→日本語の「翻訳投稿」をするのも効果的。
諭吉にとって英語は目的ではなく手段でした。西洋の知を吸収し、日本を変える。この「その先」があったからこそ、学習を続けられた。
実践:「TOEICで○点」ではなく、「英語で○○を実現したい」という目的を設定する。目的が明確なほど、学習の持続力は上がります。
諭吉の時代と現代の最大の違いは「リソースの豊富さ」。辞書も教師も教科書もなかった150年前に独学で英語を制した男がいたことを思えば、YouTube・AI・オンライン英会話に溢れた現代の私たちに「できない理由」はほとんどないはずです。
まとめ──「学び直す勇気」こそ最大の武器
福沢諭吉の英語学習法は、テクニック以上に「マインドセット」が凄い。
10年の蘭学修業が無駄になっても、翌日から英語を始められる切り替えの速さ。
辞書がなければ辞書を探し、教師がいなければ子どもにでも教えを請う貪欲さ。
“An ignorant person is a shameless person.”
「無学なる者は貧人となり下人となるなり」
── 福沢諭吉『学問のすゝめ』
辞書も教師もない時代に世界と繋がった男がいた。
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