原田先生の英語とっておきの話

【囚人たちが築いた国家、オーストラリア】流刑植民地の始まりと現代への影響

オーストラリアと聞いて、多くの人は広大な自然、コアラやカンガルー、そして近代的な都市が織りなす明るい国を想像するでしょう。しかし、この国の成り立ちを深く探ると、その礎がイギリスから送られた約16万人もの囚人たちによって築かれたという、知られざる歴史に行き着きます。

今回は、オーストラリアが「流刑植民地」として始まった歴史的背景と、その特異な起源が現代のオーストラリア社会や国民性にどのような影響を与えているのかを、順を追って解説します。

✅ この記事で分かること

  • イギリスがオーストラリアを流刑植民地とした歴史的経緯
  • 建国の引き金となったアメリカ独立戦争との関連性
  • 国家の礎を築いた囚人たちの実態
  • 流刑植民地の歴史が現代の国民性に与えた影響

なぜ流刑植民地は生まれたのか? 18世紀イギリスの事情

物語の始まりは18世紀のイギリスに遡ります。当時のイギリスは、産業革命の進展により人口が都市に集中し、深刻な社会問題を抱えていました。

急増する犯罪: 都市部の貧困と失業は犯罪の温床となり、窃盗などの犯罪が激増しました。

満員の刑務所: 当時のイギリスの法制度は厳しく、些細な罪でも投獄されたため、国内の刑務所や船を改造した監獄は常に囚人で溢れかえっていました。

この危機的な状況を打開するため、イギリス政府は囚人を海外の植民地へ移送する「流刑」という手段を本格化させます。当初、その主要な送り先は北米の植民地でした。しかし、1776年にアメリカが独立戦争を経て独立すると、イギリスは最も重要な流刑地を失ってしまったのです。

国内の治安は悪化し、代替地探しは急務となりました。そこで新たな候補地として白羽の矢が立ったのが、ジェームズ・クックの探検によってその存在が知られていた、南方の巨大な大陸「オーストラリア」でした。

オーストラリアが選ばれた理由と植民地の始まり

イギリス政府がオーストラリアを選んだのには、いくつかの戦略的な理由がありました。

1. 地理的な隔絶: ヨーロッパから極めて遠く、広大な海に囲まれているため、囚人が脱走する可能性は皆無に等しいと考えられました。

2. 地政学的な思惑: 太平洋への進出を狙うライバル国フランスを牽制し、この地域における覇権を確保する狙いがありました。

3. 未開拓の土地: 先住民アボリジニが暮らす土地ではありましたが、ヨーロッパ人にとっては未開の地であり、囚人の労働力を利用してゼロから植民地を建設するのに好都合でした。

こうして1787年、アーサー・フィリップ提督が率いる11隻の船団、通称「ファースト・フリート(第一船団)」が、約750名の囚人を乗せてイギリスを出港。長く過酷な航海の末、1788年1月26日に現在のシドニー湾に到着し、オーストラリアにおける流刑植民地の歴史が正式に始まりました。

国家の礎となった囚人たちの実像

「流刑囚」というと凶悪犯を想像しがちですが、オーストラリアへ送られた人々の大半は、貧困から窃盗などの比較的軽い罪を犯した人々でした。記録によれば、パンや衣類を盗んだ罪で7年間の流刑判決を受けた者も少なくありません。中には10代の若者や子供たちも含まれていました。

彼らは到着後、厳しい監視のもとで道路、橋、建物の建設といった過酷な強制労働に従事させられ、文字通りゼロから植民地のインフラを築き上げました。

しかし、彼らは単なる労働力で終わったわけではありません。刑期を終えた後、多くの元囚人はイギリスへ帰国せず、そのままオーストラリアに定住する道を選びました。解放後、土地を与えられて農民になったり、自らの技術を活かして職人や商人になったりして、新しい社会の中核を担う存在となっていったのです。

現代への影響:「フェア・ゴー」の精神と国民性

この「囚人たちが築いた国」という特異な歴史は、現代オーストラリアの国民性に色濃く反映されています。

その代表例が、「フェア・ゴー(Fair Go)」という精神です。これは、「誰にでも公正な機会が与えられるべきだ」という価値観を指す言葉です。生まれや身分に関係なく、自らの努力で道を切り拓いてきた祖先の歴史が、この平等主義的な精神の根底に流れています。

そのため、オーストラリアでは自らの祖先が流刑囚であったことを恥じる風潮はほとんどありません。むしろ、逆境を乗り越えて新しい社会を築き上げたパイオニアとして、その歴史を誇りに思う人々も多いのです。

<まとめ>歴史を理解することで深まるオーストラリア像

オーストラリアの始まりは、イギリスの国内問題を解決するための一つの策でした。しかし、そこに送られた人々が過酷な環境を生き抜き、新たな社会の礎を築いたことで、今日の繁栄があります。

流刑植民地という歴史は、オーストラリアという国家のアイデンティティを形成する上で不可欠な要素です。この背景を理解することは、私たちが抱くオーストラリアのイメージをより深く、多層的なものにしてくれるでしょう。

【参考サイト】

  • 世界史の窓: [https://www.y-history.net/appendix/wh1402-055.html]
  • 【新しい働き方はどのように生まれた?・海外編】第1回:オーストラリアの始まり、原住民と流刑地 — Nomad Journal: [https://nomad-journal.jp/archives/3477]
  • オーストラリア植民地化の歴史|いつ、どこがなぜ支配した? — ヨーロッパ歴史文化周遊: [https://discovery.europa-japan.com/colony/entry43.html]
  • オーストラリアの歴史 — Wikipedia: [https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2]
  • オーストラリアの不名誉な流刑地時代 — ものみの塔 オンライン・ライブラリー — JW.ORG: [https://wol.jw.org/ja/wol/d/r7/lp-j/102002285]
  • 第2章 囚人植民地 1788-1850 — 大阪大学文学部: [https://www.let.osaka-u.ac.jp/seiyousi/australia_his/page2.html]
  • オーストラリアをより深く理解する — 一般社団法人 霞関会: [https://www.kasumigasekikai.or.jp/2019-06-14-3/]
  • 大英帝国の流刑と迫害の歴史を語る世界遺産!オーストラリアの囚人遺跡群 — スカイチケット: [https://skyticket.jp/guide/110116/]
  • 囚人、流刑囚 — [Bun45] オーストラリア辞典 — 大阪大学大学院 西洋史学研究室: [https://www.let.osaka-u.ac.jp/seiyousi/bun45dict/dict-html/00284_convicts.html]
  • オーストラリアはかつての流刑地で囚人の国?その歴史と誤解を紐解く: [https://downunderaustralia.net/history/convicts/]
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