撃たれて胃に穴が開いた男性が、消化の研究を大きく進めた
体と食べ物No.134

撃たれて胃に穴が開いた男性が、消化の研究を大きく進めた

男性は、医者が亡くなったあとも27年生きた。

うなり度 読む時間11分 出典4件 確認した事実36件
もくじ
  1. 撃たれた若者は助かったが、胃に開いた穴はふさがらなかった
  2. 役所が若者をカナダへ送り返そうとしたので、手当てした軍医が自分の家に引き取った
  3. 軍医は、糸に結んだ食べ物を胃の穴から入れて、食べ物がとけていく様子を調べた
  4. 若者は軍医に断らずにカナダへ帰り、4年後に呼び戻された
  5. 胃液には塩酸がふくまれ、食べ物によって消化にかかる時間がちがった
  6. 軍医と若者の契約書には、若者が「胃を見せること」まで書かれていた
  7. 若者が亡くなると、家族は体を解剖させないために、遺体をわざと腐らせた
  8. 深掘り講義
  9. まとめ
  10. 英語で読む(A2・4択5問)
  11. 出典・ウラ取り

1822年6月6日。アメリカの五大湖に浮かぶマキノー島で、1丁の銃が暴発しました。弾を受けたのは、毛皮会社で働くフランス系カナダ人の若者、アレクシス・サン・マルタン(Alexis St. Martin)です。年はおよそ18歳でした。

銃口から若者までは、1ヤード(約90cm)もありませんでした。散弾は左の脇腹を、大人の手のひらほどの広さでえぐりました。あばら骨が折れ、肺と横隔膜がさけ、胃にも穴が開きました。

手当てをしたのは、島の砦にいた陸軍の軍医ウィリアム・ボーモント(William Beaumont)です。若者は命をとりとめました。けれど、胃の穴だけはふさがりませんでした。ボーモントはこの穴から、生きた人の胃の中を何年も調べることになります。

この出来事は、医学の歴史ではよく知られています。でも、二人を結んでいたのが「雇い主と使用人の契約書」だったことや、若者の最期のことは、あまり語られません。この記事では、まず若者のけがと、胃に穴が残ったいきさつを見ます。次に、ボーモントがその穴から行った胃液の実験を紹介します。最後に、二人が結んだ契約書の中身と、若者が亡くなったあとの出来事を、当時の記録からたどります。

01撃たれた若者は助かったが、胃に開いた穴はふさがらなかった

事故の場には、毛皮会社の社員ハバード(G. G. Hubbard)がいました。ハバードは、こんな証言を残しています。ボーモントは、傷から弾や服の切れはしを取り出しました。そして、「この男は36時間はもたない」と言って立ち去りました。ところが2〜3時間後にまた来ると、若者は思ったより具合がよかった、というのです。

ただし、この証言が世に紹介されたのは1900年です。事故から78年後、記念の式で行われた講演の中でした。言葉づかいまで正確かどうかは分かりません。

ボーモント自身の本によると、若者は高い熱を出し、ひどいせきに苦しみました。ボーモントが飲ませた下剤は、胃の穴から外へ流れ出てしまったといいます。

ボーモントは8〜10か月のあいだ、穴を閉じようといろいろ試しました。しかし、うまくいきません。穴は最後に、周りの長さがおよそ6cmの大きさになりました。穴の内側には、胃の内側の膜が少しめくれてできた「弁」がありました。この弁は、指で押すと開き、離すとふたのように閉じます。こうして、開け閉めできる「胃の窓」ができたのです。胃と体の外が、穴でつながったままになったこの状態を「胃ろう」といいます。

02役所が若者をカナダへ送り返そうとしたので、手当てした軍医が自分の家に引き取った

けがから10か月ほどたったころ、若者はまだ自分では何もできない状態でした。ボーモントは後に、アメリカ議会へ請願書(お願いの文書)を出しています。それによると、このとき地元の役人たちは、若者を「自分で暮らしていけない、ただの貧しい人」と決めつけました。そして、生まれ故郷のカナダまで、2,400km以上も送り返そうとしたといいます。

ボーモントは反対しましたが、聞き入れられませんでした。そこで、若者を自分の家に引き取りました。2年近く毎日、ときには1日に2回、傷の手当てをして、食べ物や服の世話もしたと書いています。その後も「生理学の実験をするため」に、若者を家にとどめ置きました。

ただし、この請願書は、かかった費用をつぐなってほしいと議会に求める文書です。ボーモントには、自分の苦労を大きめに書く理由がありました。そのことは覚えておきましょう。

03軍医は、糸に結んだ食べ物を胃の穴から入れて、食べ物がとけていく様子を調べた

本に記録された最初の実験は、1825年8月1日の正午に始まりました。ボーモントは、6種類の食べ物を絹糸に結びつけ、穴から胃の中へ入れました。味の濃い牛肉の煮こみ、生の塩漬け豚肉、ゆでた塩漬け牛肉、古くなったパン、生のキャベツなどです。若者はそのあいだも、家の仕事を続けていました。

1時間後に糸を引き出すと、キャベツとパンは半分ほど消化されていました。2時間後には、キャベツ、パン、豚肉、ゆでた牛肉が、きれいにとけて糸から消えていました。ところが若者が、胃の不快感と頭痛を訴えました。そのため、ボーモントはこの日の実験をやめています。

その数日後、ボーモントは若者に17時間何も食べさせずに、温度計を胃に入れてみました。目盛りは15分ほどで華氏100度(約38℃)を指して、止まりました。次に、管で胃液を約30mL取り出し、小びんに入れます。そこにゆでた牛肉のかけらを入れ、お湯で温めて、胃と同じ38℃に保ちました。すると40分ほどで、肉の表面がとけはじめたのです。

この実験で、胃の外でも、胃液だけで肉がとけることが分かりました。消化は、胃が食べ物をもみつぶす力だけによるのではありません。胃液による化学の働きでもあるのです。そのことを、目で見える形で示した実験でした。

ボーモントは胃液を小びんに取り、体温と同じ温度で肉がとけていくようすを観察した
ボーモントは胃液を小びんに取り、体温と同じ温度で肉がとけていくようすを観察した

04若者は軍医に断らずにカナダへ帰り、4年後に呼び戻された

1825年9月ごろ、若者はボーモントの許しを得ずに、カナダへ帰ってしまいました。ボーモントは「実験の対象を失った」と、あきらめかけます。

若者はカナダで結婚し、子どもが2人生まれました。別の毛皮会社に雇われ、ボヤージャー(カヌーで毛皮や荷を運ぶ人)として奥地へも出かけました。4年後の1829年、ボーモントは毛皮会社の仲介で、若者を見つけ出します。そして妻子ごと、ミシシッピ川上流の砦まで呼び寄せました。

それから1831年3月まで、実験はまた続きました。実験のあいまに若者は、まき割りや荷運びなど、使用人の仕事をしていました。その後、一家は家族の事情でカナダへ帰ります。のちにこの話を調べた医師オスラーが手紙を読んだところ、妻のホームシックが理由だったようです。

1832年11月、若者は「12か月間、実験を受ける」約束で、もう一度やって来ました。1834年6月、若者は手紙で、妻が行かせたがらないと伝えてきます。これ以後、若者がボーモントに雇われることは、二度とありませんでした。

05胃液には塩酸がふくまれ、食べ物によって消化にかかる時間がちがった

ボーモントは取り出した胃液を、名の知れた化学者たちに送って調べてもらいました。バージニア大学のダングリソンと、イェール大学のシリマンです。二人とも、胃液の中に塩酸があることを確かめました。シリマンの報告によると、コルク栓をした胃液を4月から8月まで地下室に置いても、ほとんど変わらなかったそうです。ボーモントは、スウェーデンの有名な化学者ベルセリウスにも、胃液を1本送りました。けれど返事は、ボーモントの本の出版に間に合いませんでした。

ボーモントは、食べ物ごとに、胃の中で消化にかかる時間を表にしました。ゆでた米は1時間、焼いたシカ肉のステーキは1時間35分、という具合です。恐れや怒りの気持ちがあると、胃液の出が悪くなることも書きとめています。1833年、ボーモントはこれらの結果をまとめた本を出版しました。本の最後には、実験から言えることが51か条にまとめられています。

06軍医と若者の契約書には、若者が「胃を見せること」まで書かれていた

1833年10月19日、二人は契約書を結びました。中身は次のとおりです。若者は1年間、ボーモントがどこへ行ってもついて行く「使用人」になる。胃の穴を通して行う実験を受ける。自分の胃を人に見せることにも従う。給料は、食事と住まいに加えて、1年で150ドルでした。11月7日には、2年で400ドルの契約も結んでいます。

同じ年、若者は陸軍の名簿にも「軍曹」として登録されていました。登録先は、陸軍省で雑用をする部隊でした。名簿の年齢は28歳、身長は5フィート5インチ(約165cm)とあります。若者は字が書けませんでした。残っている若者の手紙はどれもほかの人が代わりに書いたもので、名前の代わりに印がつけてあります。

ボーモントはその後も、若者を呼び戻そうとし続けました。最後の手紙は、1852年10月15日付けです。1年500ドルという条件も出しましたが、実現しませんでした。翌1853年3月、ボーモントは階段で転びます。その後、首にできたはれものが悪化し、4月25日に亡くなりました。

07若者が亡くなると、家族は体を解剖させないために、遺体をわざと腐らせた

1880年、カナダのモントリオールで生理学を教えていた医師が、新聞で一つの死亡記事を見つけました。サン・マルタンが、6月24日に亡くなったのです。医師の名は、ウィリアム・オスラー(William Osler)。毎年の授業で、ボーモントの本を学生に見せていた人でした。

オスラーはすぐに、地元の医師と村の神父に手紙を書きました。遺体を解剖させてほしい。胃を買い取りたい。胃は、ワシントンの陸軍医学博物館に納めるつもりだ。そう頼んだのです。けれど、願いはかないませんでした。

その理由は、神父の話をもとに判事が書いた手紙に残っています。家族は、医師たちの頼みをすべて断りました。暑い時期なのに、遺体をいつもより長く家に置き、わざと腐らせたのです。遺体は傷みがひどく、葬式のあいだ教会の中に入れられませんでした。墓穴は、掘り返されないように、8フィート(約2.4m)の深さまで掘られました。

LECTURE

深掘り講義

ここから先は、もう一段深く。しくみ・史料・論争まで踏み込みます。

古い記録どうしで、若者の年齢や実験の回数が食いちがっている

サン・マルタンの年齢は、記録によってずれます。ボーモントは、1822年の時点で「およそ18歳」だったと書きました。1833年の陸軍の名簿では、28歳です。この二つはほぼ合っていて、1880年には75〜76歳だった計算になります。ところが神父の記録では、亡くなったときは83歳です。当時、字が書けない人の生まれた年は、本人の記憶や周りの人の話で決まりがちでした。どれが正しいかは、今ある記録だけでは決められません。

実験の回数も、数え方で変わります。オスラーは、観察は全部で238回と書きました。医学と文化の関係を研究するテイラー=パイリーは、2024年の論文で「175回以上の実験」と書いています。どこまでを1回と数えるかで、数字はずれるのです。

若者がヨーロッパへ行ったことがあるかどうかも、記録が食いちがいます。判事は、晩年の本人から「ヨーロッパとアメリカを回った話」を聞いたと書いています。一方、オスラーは「そうした旅の記録は見つからない」と書きました。本人の思い出話と、紙の記録が合わないのです。

記録には、それぞれ書かれた目的があります。ボーモントの請願書は、お金を求める文書でした。ハバードの証言は、事故から長い時間がたった記念の式で紹介されました。オスラーの文章は、1902年にセントルイス医学会で行った講演がもとです。ボーモントの業績を紹介するための講演でした。歴史を調べるときは、「誰が、いつ、何のために書いたか」を必ず確かめます。これを史料批判といいます。

若者は、研究の参加者ではなく「使用人」として雇われていた

医学の歴史を研究するアレクサ・グリーン(Alexa Green)は、2010年の論文で、二人の関係を「働くこと」の目で読み直しました。グリーンによると、当時のアメリカでは、研究で守るべきルール(研究の倫理)が、人を雇うしくみや、住みこみで働く「奉公」のしくみをもとに考えられていました。二人の関係も、契約で働くこと、住みこみの奉公、決まった年数だけ働く年季奉公、軍隊の勤めといった考え方で理解されていたのです。

今の医学研究では、参加する人が内容を理解して同意し(インフォームド・コンセント)、いつでもやめられることが基本です。1833年の契約書は、それとは考え方がちがいます。給料と引きかえに、「もっともな指示にはすべて従う」ことを約束させるものでした。それでも若者は、1825年には無断でカナダへ帰り、1834年には戻ることを断りました。契約で縛られていても、若者は黙って従うだけの人ではありませんでした。

穴の開いた一人の胃で調べた消化の時間が、表になって広まった

ボーモントの数字は、たった一人の、しかも穴の開いた胃から取ったものです。それでも「この食べ物は何時間で消化される」という表は、ボーモントの本の外にも広まりました。テイラー=パイリー(Emilie Taylor-Pirie)によると、1838年にイギリス版が出ると、ほかの医師たちもまねをして、食べ物ごとの消化時間を表にしました。1865年の一般向けの雑誌には、ゆでた米がいちばん消化が速く、牛の脂は5時間半かかる、という表までのっています。

テイラー=パイリーは、次のように論じています。食べ物を「何時間で消化されるか」で考えるやり方は、鉄道や電信(電線で文字を送るしくみ)で、各地の時刻がそろえられていく時代の感覚と結びついていた、というのです。ただ、一人の観察から、全員に当てはまる決まりを引き出すことには、いつも危うさがあります。今の研究が、多くの人を集めて比べるのは、そのためです。

08まとめ

1822年に撃たれた若者の胃には、閉じない穴が残りました。軍医ボーモントはその穴から、胃の中が38℃に保たれていることと、胃液だけでも肉がとけることを確かめました。二人を結んでいたのは、「胃を見せること」まで書かれた使用人の契約書です。

若者は、ボーモントの死後も27年生きました。亡くなったときの年は、神父の情報では83歳です。家族は医者たちに胃を渡さないよう、遺体をわざと腐らせ、墓を約2.4mの深さまで掘りました。教科書にのる消化の実験には、このような結末があったのです。

人に話すなら、こう言おう

1822年に撃たれて胃に穴が開いたままになった人がいて、お医者さんがその穴から消化を何年も調べたんだって。でもその人は医者が死んだあとも27年生きて、家族は解剖されないように墓を2.4mも掘ったらしいよ。
READ IN ENGLISH

英語で読む

The Man with a Window in His Stomach

CEFR A2227 words4択 5問全訳つき
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英文をタップすると、その文の訳が出ます。

On June 6, 1822, a gun went off by accident on Mackinac Island.1822年6月6日、マキノー島で、銃が暴発しました。 A young worker named Alexis St. Martin was standing less than one meter away.アレクシス・サン・マルタンという若い働き手が、1mもはなれていない所に立っていました。 The shot made a big hole in his side and in his stomach.弾は、彼の脇腹と胃に大きな穴を開けました。

An army doctor, William Beaumont, took care of him for almost two years.陸軍の医師ウィリアム・ボーモントが、2年近く彼の世話をしました。 St. Martin lived, but the hole in his stomach never closed.サン・マルタンは生きのびましたが、胃の穴は最後まで閉じませんでした。 So Beaumont used it as a window.そこでボーモントは、それを窓として使いました。

He tied pieces of meat, bread, and cabbage to a silk string and put them into the stomach.彼は肉やパン、キャベツのかけらを絹の糸に結びつけ、胃の中に入れました。 He also took out gastric juice, the liquid that breaks down food.また、胃液、つまり食べ物を分解する液を取り出しました。 In a small bottle kept at 38 degrees, the juice slowly dissolved a piece of beef.38度に保った小さなびんの中で、胃液は牛肉のかけらをゆっくりとかしました。 So digestion is partly chemistry, not only squeezing.つまり消化は、しぼり押すことだけでなく、化学の働きでもあるのです。

But St. Martin was not a free volunteer in the modern sense.でもサン・マルタンは、今の意味での自由な参加者ではありませんでした。 In 1833, he signed a contract with a mark because he could not write.1833年、彼は字が書けなかったので、印をつけて契約書にサインしました。 He promised to work as a servant and to show his stomach for 150 dollars a year.彼は、1年150ドルで使用人として働き、自分の胃を見せると約束しました。 In 1825, he went home to Canada without Beaumont's permission.1825年、彼はボーモントの許しなしにカナダへ帰りました。 After 1834, he never came back to work for him.1834年より後、彼が戻ってボーモントのもとで働くことはありませんでした。

Beaumont died in 1853.ボーモントは1853年に亡くなりました。 St. Martin lived 27 more years and died in 1880.サン・マルタンはそれから27年生き、1880年に亡くなりました。 Doctors wanted his stomach, but his family said no.医師たちは彼の胃をほしがりましたが、家族は断りました。 They kept his body at home in hot weather and dug a grave 2.4 meters deep.家族は暑い時期に遺体を家に置き続け、深さ2.4mの墓穴を掘りました。

4択問題 Reading Quiz

  1. Q1What is this story mainly about?

    この話は主に何についてのものですか。

  2. Q2How much money did St. Martin get for one year in the 1833 contract?

    1833年の契約で、サン・マルタンは1年にいくらもらうことになっていましたか。

  3. Q3Why did St. Martin sign the contract with a mark?

    サン・マルタンが印をつけて契約書にサインしたのはなぜですか。

  4. Q4In paragraph 3, the word "dissolved" is closest in meaning to ...

    第3段落の dissolved という語にもっとも近い意味は?

  5. Q5Which is true about the story?

    この話の内容と合っているのはどれですか。

重要語 Key Words(タップで裏返る)

  • stomach名詞
    胃

    My stomach hurts after eating too fast.

    早く食べすぎたあと、胃が痛い。

    💡 発音は「スタマック」。ch は k の音。stomachache は「腹痛」。

  • accident名詞
    事故、偶然

    He broke his leg in a car accident.

    彼は自動車事故で足を折った。

    💡 by accident で「偶然に、うっかり」。

  • gastric juice名詞
    胃液

    Gastric juice is very sour.

    胃液はとても酸っぱい。

    💡 gastric は「胃の」。ガストロ(胃)と同じ語源。

  • digestion名詞
    消化

    Chewing well is good for digestion.

    よくかむことは消化によい。

    💡 動詞は digest(消化する)。「要約」の意味の digest もある。

  • dissolve動詞
    とかす、とける

    Sugar dissolves quickly in hot tea.

    砂糖は熱い紅茶ですぐにとける。

    💡 液体の中でとけること。熱でとけるのは melt。

  • contract名詞
    契約、契約書

    She signed a contract with the company.

    彼女はその会社と契約を結んだ。

    💡 sign a contract で「契約書にサインする」。

  • servant名詞
    使用人、召使い

    The rich family had three servants.

    その裕福な家には使用人が3人いた。

    💡 serve(仕える)+ -ant(人)。

  • permission名詞
    許可、許し

    You need permission to enter this room.

    この部屋に入るには許可が必要だ。

    💡 動詞は permit。without permission で「無断で」。

SOURCES出典・ウラ取り

この記事の事実は、次の資料を実際に開いて確認しています(確認した事実 36件)。

  1. Beaumont, W. (1833) Experiments and Observations on the Gastric Juice, and the Physiology of Digestion. Plattsburgh: F. P. Allen(米国国立医学図書館所蔵本のデジタル版)archive.org
  2. Osler, W. (1909) A Backwood Physiologist, in An Alabama Student and Other Biographical Essays. Oxford University Press(コーネル大学図書館所蔵本のデジタル版)archive.org
  3. Green, A. (2010) Working Ethics: William Beaumont, Alexis St. Martin, and Medical Research in Antebellum America, Bulletin of the History of Medicine 84:193-216doi.org
  4. Taylor-Pirie, E. (2024) The Telegraphic Body: Dyspepsia, Modern Life, and 'Gastric Time' in Nineteenth-Century Medicine and Culture, Journal of Medical Humanities 46:591-610doi.org

文章はすべて資料をもとに独自の言葉で書いています。画像はオリジナルのイメージです。誤りにお気づきの方は訂正窓口へ。

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